【鶴ヶ丘古墳群中の一基】
小畔(こあぜ)川に面した大地の東縁に所在する、古墳時代後期(7世紀後半代)の古墳群である。
1959年(昭和34年)に鶴ヶ島村郷土史研究会による調査では、古墳数は34基。
1961年(昭和36年)の埼玉県教育委員会の「古墳調査報告書」によると、完形14基、半壊9基、一部残存3基、その他5基の合計31基。
1975年(昭和50年)の「埼玉県遺跡地図」には前方後円墳1基、方墳2基、円墳26基の合計29基。
1986年(昭和61年)の鶴ヶ島町の調査では、前方後円墳2基、方墳2基、円墳25基の合計29基。
1994年(平成6年)「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」には鶴ヶ丘稲荷神社古墳、鶴ヶ丘遺跡1号墳、No.49古墳の3基。
現在、鶴ヶ島市遺跡地図には鶴ヶ丘稲荷神社古墳、鶴ヶ丘1号墳の2基のみ記載がある。
かつては、30基を超える古墳群だったようだが、ほとんどの古墳が農地や宅地の開発のため破壊され、現状では、ほとんどの地表に存在を確認できない古墳跡となっている。
唯一、墳丘を残していた鶴ヶ丘稲荷神社古墳も1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)の日本住宅公団の土地区画整理事業に伴う発掘調査の後、宅地化され消滅した。
【鶴ヶ丘古墳群の調査暦】
鶴ヶ丘稲荷神社古墳は2回(下記参照)。
その他、1973年(昭和48年)に鶴ヶ丘1号墳と2基の古墳跡が調査されている。
【鶴ヶ丘稲荷神社古墳】
かつて、墳頂中央に稲荷社が鎮座していた。
石室は乱掘され、石室材が多量に掘り出されていたため、1962年(昭和37年)に1回目の発掘調査が行われ、円墳と考えられていたが、1983年(昭和58年)〜1984年(昭和59年)の2回目の削平前の発掘調査で、長方形に巡る周溝が確認され、方墳と判明した。
また、墳丘は「版築」の技法が用いられ、盛土されている。
版築の技法は寺院建築に伴う技法として、朝鮮半島からもたらされたもので、畿内では、7世紀前半遺構、方墳や八角墳の築造に取り入れられているもの。
すぐ西側に所在した、同じく方墳の鶴ヶ丘1号墳も同様の技法が取られており、大陸の文化が確実にこの東国にも波及してきていたという、重要な例であるようだ。
古墳は調査後に破壊されたが、すぐ西の境公園内に復元されている。
この境公園を含む一帯は鶴ヶ丘遺跡という旧石器時代から人々の営みがあった地である。
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