【詳細不明の古墳】
区画整理の際、周囲の古墳は削平されたようだが、この古墳は植野泉のランドマーク的な存在で残されたようである。
明治42年、植野・新屋敷の青年一同が木碑を建てたという。
その後、人家が急増し、ぽつんと浮島のような感じになった。
調査等も行われていないようで、詳細不明。
【奥州塚の名の由来】
延暦七年(788)、征東大将軍として奥州平定に向かった紀古佐美(きのこさみ)が大敗し、この地まで退き、激戦で勝利した
。
この時の多くの戦死者を埋葬したのが、この塚という伝えがある。
ちなみに、ここから、1kmほど南西の赤城神社、四ツ塚古墳群には日本武命が東征の際に立ち寄ったという伝承がある
。
紀古佐美の時代よりも600年〜700年近く前のことになる。
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