【大胡地区の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では
、旧勢多郡大胡町に42基の古墳が確認されており、特に、横沢、茂木、堀越地区に古墳が集中していたということである。
現在、完存するのはこの堀越古墳と、上大屋の前橋市指定史跡の稲荷塚古墳(大胡町25号)くらいである
。(半壊状態で残存しているものはある)
近年の発掘調査では、昭和10年に確認された他にも多くの古墳が造られ、集落や営まれていたことが確認されている。
【堀越古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、大胡町15号古墳と採番されている。
赤城山西南麓にできた小谷地の南側の急斜面に造りこまれた山寄の円墳である。
明治2年に開口されており、小刀等の出土が伝えられているが、現在、その行方は不明である。
遺物としては、発掘調査時に前庭より出土した土師器、須恵器のみであるであり、終末期の古墳であるので、埴輪列も持っていない。
急斜面に造られたため、北と南では高さに2.5mもの差があり、そのためか、周掘も東〜南〜西のみで、高い北側には回らなかったようである。
現在、堀越地区に単独で存在しているように見え、「群馬県史
資料編」にも「北東に截石積(きりいしづみ)の五十山古墳があるのみで、他に古墳は認められない」とある。
「群馬県古墳総覧〈2017〉」には北東500mほどのところに「大胡町17号〜19号墳」の3基があるが、そのうち、大胡町17号墳は「截石切組積石室」となっているので、五十山古墳とは大胡町17号のことか。
「截石切組積」の堀越古墳と同様、終末期の古墳で同一のグループと考えられるが、いずれにしても、現状は全て削平されてしまったようである。
【大児(大胡)の臣の支配地】
高崎市の山上古墳と
、この堀越古墳の「截石切組積石室」の石室の関連性が言われており、山上古墳前の山上碑に刻まれた「大児臣(おおごのおみ)」とは、この大胡の地を支配した豪族であると言われている。
山上碑によると、山上古墳の被葬者は、かの地の支配者である三家一族の「黒売刀自(くろめとじ)」であり、大児臣はその夫で
、山上碑を建立した長利の僧(ちょうりのほうし)の父ということになる。
(黒売刀自が夫の一族の地や墓に葬られなかった理由は山上碑で)
2基の古墳は、ほぼ同年代の7世紀後半〜8世紀にかけて築造、追葬などされていたものと考えられ、この堀越古墳が大児の首長墓だとすると、ここに葬られたのは、黒売刀自の夫である大児臣や、それに近い一族の人間である可能性が高いように思われる。
【截石切組積(きりいしきりくみづみ)】
截石切組積という、当時の最高の石組技法を駆使した石室であり、全国でも30基ほどしか確認されていない。
石材の加工はわりかしアバウトで、自然の輪郭を残すものやノミの跡が残るものもある。
特徴的なのが、玄室と羨道の高さが2段に構築されていることである。
山寄せのためか、羨道が低く、玄室が高くなっており、両者の間の梱石(しきみいし)が42cmもあり、著しく高い。
狭く、小さく造られた玄門をくぐり、玄室へ上がると、玄室床面が羨道床面より高いのに加え、さらに玄室高が羨道高よりも50cm以上も高くなっているので、外から見た印象とはまるで違い、玄室は天井が高く、開放感すら感じる。
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