【吉田古墳群】
吉田古墳群は、茨城県中部、水戸台地東側の吉田台地の北側縁辺部に築造され、4基の古墳で形成される。
国史跡に指定された吉田古墳(第1号墳)は、関東では珍しい線刻壁画を持つことで有名で、さらに、近年の調査で「八角形」の可能性がある多角形墳と判明し、線刻壁画のある石室を持つ八角形墳としては全国で唯一である。
「茨城県古墳総覧(1959)」と「茨城県重要遺跡調査報告書3(1986)」には、第1号墳から第3号墳まで記載がある。(2号、3号が現在の番号(下表)と同一かは不明)
「常陸国那珂郡家の総合考察(1959)」には
吉田村大字吉田字東組に線の彫刻のある石槨を持つ円塚について書かれており、
「附近には現在圓塚二個 あり、嘗て曲玉、管玉等を出せし處ありといふ」とある。
(円塚2コが何号墳を示すかは不明。ただし、「東茨城郡誌(1986)」によると、曲玉、管玉等の出土の伝えがあるのは4号墳)
「東茨城郡誌(1986)」には、
吉田村大字吉田字東組1号墳〜4号墳と思われる4基の古墳と、その他、岩片が露出し、勾玉が拾われた場所があるとし、吉田村には古墳が多いと書かれている。
いばらきデジタルマップでは「方墳2(内1基は国指定史跡)、形態不明2」で4基となっている。
「常陸の古墳群(2010)」では、「方墳1基、その他3基」で4基となっている。」
吉田古墳(吉田1号墳)以外の他の3基はほぼ湮滅状態である。
東側の薬王院遺跡などからも埴輪片が検出され、未知の古墳の存在が推定されており、周囲には他にも湮滅した古墳があったと推定されている。
【吉田古墳(第1号墳)】
吉田古墳は、1914年(大正3年)に地主により採土中に偶然、石室が発見され、調査の結果、線刻壁画をもつことが判明し、1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。
しかし、その後、墳丘は薮と化し、露出したままの状態であった石室前の杉戸の鍵は壊れて、石室内部の壁面には多くの落書きがされる、天井石が崩落するなど荒れ果てた状態になったため、1972年(昭和47年)、水戸市教育委員会により初の発掘調査と石室の復旧工事が行われた。
当初、方墳と考えられていたが、度重なる調査により、八角形と思われる多角形墳と判明した。(多角形墳については右の項で)
石室は現在、埋め戻し保存されている。
【由来・来歴】
1914年(大正3年)、地主により石室発見。線刻壁画古墳と初めて認識
1916年(大正5年)、東京帝国大学による調査
1922年(大正11年)、国の史跡に指定
1945年(昭和20年)、出土品を陳列した茨城県立教育参考館が空襲で焼失。
1972年度(昭和47年度)、第1次調査。石室復旧工事
2005年度(平成17年度)、第2次調査
2006年度(平成18年度)、第3次調査
2007年度(平成19年度)、第4次調査
2008年度(平成20年度)、第5次調査
2010年(平成22年)、八角形の可能性が高い多角形墳として、史跡範囲の追加指定
2010年度(平成20年度)、第6次調査
2012年(平成24年)、史跡範囲の追加指定
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▲南側から
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【多角形墳】
吉田古墳(第1号墳)は、方墳と考えられてきたが、2010年(平成22年)の測量調査により、多角形墳(八角形)と判明した。
八角形墳は当時の天皇陵クラスの古墳で採用される特別な墳丘形態である。
全国でも、他に25例ほどしかない確認されていないが、その中でも正八角形のものは7例しかない。(2015年時点)
京都・奈良の大王墓とされる5例以外は、古墳王国・群馬に2基(三津屋古墳、武井廃寺古墳)の7例のみであり、他県ではない。
関東における多角形墳は、いびつであり、京都・奈良の大王墓とは異なるものであるという見方がある。
多角形プランを意識して築造されたものではなく、葺石による外郭の築造、地形などにより、円墳、方墳などを意図したものが、結果的に多角形を
のようないびつな形状になってしまったというものである。
これらを円墳、方墳の一形態として捉え、「多角円墳」「多角方墳」「八角形円墳」などとする。
吉田古墳は、一つの角が135度ではなく、正八角形とは言えないいびつな形をしているため、八角形墳と言い切れないものがある。
しかし、周溝が八角形ということは、元々、八角形をプランしていたものが、築造技術の未熟などにより、ゆがんだ可能性もある。
いずれにせよ、線刻壁画を持つ多角形墳は全国で唯一無二のものであることは間違いない。
参考文献:
「明日香村文化財調査研究紀要」「八角墳の再検討」(2015年) |