【三津屋古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、駒寄村(現吉岡町)に94基の古墳の記載があり、この三津屋古墳は、駒寄村42号古墳と採番されている。(上毛古墳綜覧〈1938〉)
その後、竹林に覆われ、忘れ去られていたようで、県の遺跡台帳にも記載がなかった。
1993年(昭和68年)、宅地造成に伴う事前の竹林伐採作業中に古墳状隆起が確認され、調査に至った。
全国でも稀少な正八角墳として、注目を浴びている。
【稀少な正八角墳】
八角形墳は、天皇および皇族にのみ用いられる形式と考えられており、全国でも7例、機内以外では群馬に2例のみ(2015年現在・詳細は後述
)の大変貴重なものである。
しかも、中心の関西から遠く離れた群馬県で採用された背景やこの古墳の被葬者(天皇、皇族ではなくこの地域の首長?)の性格など、大変意味が深い。

▲三津屋古墳墳丘実測図
玄室奥壁を中心として
、墳丘の規模が決められており、同心円の中に墳丘と周堀が収められ、石室主軸
をほぼ真北に向け、八等分されている(一角がほぼ135度)。
また、約30cmを1尺とする唐尺が使用されたものと考えられる。
【横穴式石室】
残念ながら、発見時には石室は著しく破壊されていた。
奥壁と側壁根石の一部を残してほとんど持ち去られ、奥壁も運び出すためか割られていた。
古くに盗掘により開口していたようだが、上述の県下一斉調査以前に、既に石室は破壊された状態だったのか、調査後、古墳の存在が忘れ去られるまでの間に石材が抜き取られたのか、副葬品のみならず、巨石を運び出し、何に使用したのか、不明である。
奥壁や側壁根石の抜き取り跡から
、自然石乱石積の横穴式石室と推測されている。
正確にプランされた正八角形墳の石室や副葬品が残存していれば、東国における八角形墳の謎を解く大きな鍵になったかもしれず、大変残念である。
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