【沖洲古墳群】
沖洲古墳群は霞ヶ浦の北部、行方市(旧玉造町)沖洲地区に所在する。
「重要遺跡調査報告書1(1982)」には、5基の古墳が分布する中規模の古墳群とあり、
「北から南にほぼ一直線に並んでいる。一番北から、三昧塚古墳、延戸古墳、勅使塚古墳、権現山古墳、大日塚古墳の順で、いずれも前方後円墳である」と記載されている。
また、円墳数基は湮滅したとある。
「茨城県古墳総覧(1959)」では、「沖洲」に、他に円墳4基(八重塚1号墳〜4号墳)の記載があり、八重塚古墳群と呼ばれるようである。
八重塚古墳群は、沖洲古墳群に続き、大日塚古墳と同じ沖洲八重塚に造られた思われるが、詳細な所在地は不明
。
ここまでで、沖洲古墳群を構成する古墳として、9基が挙げられている。(下の一覧表)
「常陸の古墳群(2010)」では、前方後円墳3基、円墳4基、その他1基、総数8基となっている。(延戸古墳は除外と思われる)
いばらきデジタルまっぷでは「前方後円墳1基、前方後方墳1基、帆立貝式古墳1基、円墳4基)となっている。(延戸古墳と権現山古墳が除外と思われる)
上記二つの資料の「円墳4基」が、古墳総覧で沖洲に所在した八重塚古墳群の4基の円墳を指すと思われるが、あるいは、全く別のものである可能性もある。
また、三昧塚古墳が築堤工事の土取りにより破壊されたように、土取りで複数の古墳が消滅したとも伝えられており、周辺にはもっと多くの古墳が存在していた可能性がある。
▲古い時代の絵図
「三昧塚古墳第3次発掘調査報告書」より
「稲荷」と書かれているのが三昧塚、東側の道沿いに、「毘沙門」「十王」など古墳を想起させるような小山のや物が書かれている。
延戸古墳か削平された円墳などだろうか?
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▲南西側 駐車場から
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【三昧塚古墳】
三昧塚古墳は沖洲古墳群を構成する一基で、
墳丘長85mの群中最大の前方後円墳。
行方市指定史跡に指定され、「三昧塚古墳農村公園」として復元整備されている。
この地域の多くの古墳が台地上に立地するのに対し、この三昧塚古墳は沖積低地に立地するという特異な存在である。
盾形の周溝を持ち、墳丘上には三重の円筒埴輪列が巡っており、後円部の箱式石棺から、未盗掘で出土した多彩な副葬品は国の重要文化財に指定されている。
【古墳の破壊と調査、復元】
三昧塚古墳は、比較的良い状態で残存していたが、1955年(昭和30年)、
不運にも農林省主導による霞ヶ浦の築堤用の土砂採取工事により、墳丘の約2/3が破壊された。
通報を受けた文化財保護委員会(現文化庁)が工事を止めるべく折衝をしている間にも、円筒埴輪が三重にめぐっていた墳丘は容赦なく重機で切り崩され、出土した人物埴輪、動物埴輪等が無造作に積み挙げられていくような惨状だったという。
現代であれば、考えられないことであるが、当時は文化財保護という意識が薄く、結局、工事を止めることはできず、記録保存のための緊急発掘調査を講じるしかなかったようである。
削平部分は耕作地として
しばらく利用されていたが、1990年に玉造町により土地が買収され、史跡に指定され、削平部分に盛土を行い花畑とした。
その後、復元のための2度の発掘調査を経て、2005年(平成17年)に復元整備された。
【箱式石棺と出土品】
1955年(昭和30年)の緊急発掘調査で、破壊が及んでいなかった後円部頂から、未盗掘の状態の長持型組合石棺が出土した。
後円部の墳頂下2.7mの箱式石棺の中には、伸展葬(しんてんそう・全体を伸ばした状態で埋葬)の形で遺骸が埋葬されていた。
副葬品としては、金銅製馬形飾付冠(こんどうせいうまがたかざりつきかんむり)・金銅製垂飾付耳飾(こんどうせいたれかざりつきみみかざり)・変形四神四獣鏡(へんけいししんしじゅうきょう)等が出土した。
また、石棺の北方約50cmには、副葬品埋納用の別の木製施設(木箱または木板状施設)が認められ、この施設からも多数の副葬品が検出された。
これらは一括して国の重要文化財に指定され、茨城県立博物館に所蔵されている。
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