【箕田古墳群中の一基】大宮台地の北端、通称箕田台地上
、幅600m、長さ1000mに渡る広範囲に6世紀初頭から7世紀中葉にいたるまでの150年に築造された古墳群
現存はわすがに7基のみで、鴻巣市の史跡に指定されている
5つに分類される支群の中で龍泉寺支群に属し、現存するのは2号墳と4号墳のみである
この2号墳は箕田古墳群中、5号墳に次ぐ規模の大きさ
かつては箕田氷川神社だったが明治時代以降、氷川八幡神社に合併されたとのことだ
氷川社
村の鎮守なり。社の後に古塚あり。高さ6・7尺幅12・13間。往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり。これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり。村持。
末社諏訪社。稲荷社
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▲『新編武蔵風土記稿』より
箕田2号墳と箕田氷川神社
【箕田館の推定地】
箕田は箕田源氏の発祥の地とされており、2号墳(三士塚)の南側一帯は源仕(つこう)、宛(あつる)、綱(つな・頼光四天王の筆頭であり、渡辺氏の祖と
して有名)三代の館である箕田館跡と推定されている。
伝箕田館の遺構は何もないが、古墳から50mほど南の住宅地の一角に「山神・荒神」と刻まれた50cmほどの小さな石碑があり
、江戸時代、箕田館跡の目印に立てられたと伝えられているそうだ。
【サンシ塚の名の由来は?】 「武蔵国郡村誌」1953年(昭和28年)によると、箕田源氏の祖である源仕及び妻子の墓という伝承があるそうだが、源仕(891〜942)と
古墳の築造年代の6世紀後とは300年〜400年ほどの隔たりがあるので、おそらく、古墳近くに源仕の館があったことから、そのような伝承になったのだろう
三士は源仕と妻と子の三人のことか、(仕=士になったのか)あるいは三氏=箕田源氏
の仕、宛、綱の三代のことかあるいは箕田氏=三田氏で略して三氏塚となったのか
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