古墳の森TOP群馬県の古墳川場村の古墳


てんじんこふん(かわばむら84ごうこふん) / てんじんこふんぐん
 天神古墳(川場村84号古墳) / 天神古墳群
 

※写真は全てクリックで拡大します※


川場村の古墳

1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、 川場村で89基の古墳が確認されている(川場村1号〜89号古墳)。
 

天神古墳群

「上毛古墳綜覧〈1938〉」記載の川場村の古墳のうち、川場村69号墳〜84号墳、88号墳〜89号墳の19基が、大字天神に所在する。

1954年(昭和29年)に 群馬大学、尾崎喜佐雄先生により調査され、『横穴式古墳の研究』に、川場A号(川場村71号と重複)〜G号古墳が、調査古墳として一覧表に掲載されている。

群馬県古墳総覧〈2017〉」には、上記の古墳に、1970年(昭和45年)〜1971年(昭和46年)に調査された無名1号〜4号古墳を加え、計29基が」に記載されている。

県台帳3236には「川場村72号墳〜77号墳」が天神古墳群として記載されている。

「マッピングぐんま」には「川場村0007遺跡 天神古墳群」と して、「川場村72号〜83号古墳」と記載されている。

「川場村72号〜83号古墳は字天神の南端の農地の一角(地番100〜116)にまとまって所在すると思われる。

農地を挟んだ北側にも、封土を失い、石室材のみとなった古墳が2基所在する。(川場A号古墳(川場村71号)竹鼻古墳(川場村84号))

間の農地にもかつては多数の古墳があり、現在は削平されたと思われる。(川場B号〜G号古墳?)

現存するのは10数基と思われ、当方が確認できたのは15基(石材のみの古墳跡含む)である。

7世紀代の群衆墳と思われる。

 

天神古墳

1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、川場村84号墳と採番されている。  (綜覧番号)

また、固有名称を「天神古墳」という。

天神古墳群中、唯一の前方後円墳で、最大と記されているが、墳丘は除かれたとあり、規模は定かではない。

「前方部 後円部共ニ石槨 現存」とあり、2基の石室のみがあったようだ。

1926年(大正15年)頃、発掘されたようだが、出土品等は伝わっていない。

地目は「原野」となっている。

マッピングぐんま、県台帳には記載がない。

 



 

 


疑問 (1) 前方後円墳とした根拠

薄葬令が出され、前方後円墳が作られなくなった7世紀代の群衆墳であり、

石室のみで封土も既になかったのであれば、前方後円墳とした根拠が不明である。

石室のみの2基を、1つの前方後円墳のものとした根拠は、何らかの伝承や、封土が取り去られる前の地元民の記憶などがあったのだろうか。

「1926年(大正15年)頃に発掘」とあるが、その時に、封土を取り去ると同時に石室を掘り出したのだろうか。
 

あるいは、隣り合う2基の石室を前方後円墳1基と見た可能性もあるかも?

(渋川市(旧敷島村)の五箇塚と五箇塚2号も円墳2基が前方後円墳と記載されたなどの例があり)


疑問 (2) は右で→
 



▲川場村84号古墳
1935年(昭和10年)調査時の
スケッチ図 (古墳台帳より)
 


川場村の古墳台帳にある石室の
サイズの詳細は下表の通り。

・石室が前方部と後円部の二カ所
 絵は前方部か?

・もう一つの石室(後円部)が描かれていないのは、既に崩壊した状態だったからか?

・石室の前に小さな水路と小さな橋のようなものがあり、背後は水田?

・水田の背後に見えるのは山並み?
 

↓↓↓ 当方で川場村84号古墳と同定した「」号古墳 ↓↓↓


▲天神古墳群 分布図
(各種資料を基に独自に作成)

現地で確認できた14基の古墳を
「あ」号〜「す」号まで割り振り、
上毛綜覧番号に同定したもの
 

同定した根拠

  1. 群馬県古墳総覧」の分布図に天神古墳は古墳の一群の最北にプロットされており、「」号もこの群の最北に位置する。(ただし、分布図は大まかなもので、詳細な位置は特定できない)

  2. 古墳が集中するブロックの地番は(村越100〜116)であり、天神古墳(八幡302)は道路を挟んだ北のブロック(293〜305)と思われ、こちら側には「」号のみ。
    (85号古墳(竹鼻古墳)も北に位置するので、84号古墳(天神古墳)も北側にあっておかしくない)

  3. 」号は地番293で微妙にズレるが、前方後円墳であれば、墳丘は北の地番302に及ぶかも?

  4. スケッチ図に書かれている水田と小さな水路があるのも北のブロックで、かつては「」号の前にも水路があったか?
    」の西側にも同じような水路があり、そちらにもう一つの石室があった可能性がある。

  5. 背後の水田と山並みがスケッチ図と一致?(この風景は他の古墳では見られない) →「」号正面からの写真を参照

  6. 石室は年月が経ち、崩落したようだが、天井の巨石の形、特に左上の欠け具合と、墳丘の上にちょこんと生えている低木の感じが 、スケッチ図と極めてよく似ている。(右の比較図参照)



▲「」号 東側から

石室が大きく露出した前方部石室か
 

▲「」号 南側から
 

▲「」号 正面から

背後に水田、その後方左に山並み、
右にほぼ水平に並ぶ木々
 

▲「」号と天神古墳スケッチ図の
天井石と低木の比較図

極めて似ている個所を赤で印
 

他の古墳サイト様では、84号古墳(天神古墳)=「」号 とされている。
(「」号(城越102〜104)は、当方では73号古墳と同定)

しかし、「天神古墳」は八幡302なので、 地番的には少し苦しいか。
(区画整理により地番が変更になった可能性もあり?)

古墳番号の並びを見ても、70番台が並ぶど真ん中の「」号 の位置に84号が入り込むのはすっきりしない。

また、「」号については、他の古墳サイト様やGoogleマップでは無名1号古墳(川場19号墳)、城越101)としている。

101は「」と道路を挟んですぐ南で、「」号の墳丘の一部が101だった可能性もあり、「」号=無名1号古墳の可能性 もある。

ただし、無名1号墳は(昭和10年)の県下一斉調査時には記載漏れし、
1970年(昭和45年)〜の測量調査により、追加された古墳で、
道路際の一番目立つ位置に露出する石室が記載漏れしたかは、少し疑問。

以上、分布図の位置と地番、スケッチ図との一致点などから判断して、
当方では、84号古墳(天神古墳)=「」号とした。

 


疑問 (2)   後円部の詳細が描かれていない?

「前方部、後円部共に石槨 現存」とあり、サイズも書かれているのに、
スケッチ図には石室の様子が描かれているのは一基(前方部?)のみである。

後円部の石室は既に崩落し、絵に描くような状態ではなかったのだろうか?

崩壊していたと仮定すると、道路を挟んで西側にある崩れた石室跡のような痕跡が、後円部石室の可能性も、なくはないか?
(ちなみに、当方では、その跡を無名1号墳と仮定、天神古墳のもう一つの石室は北側と推測していたが)

他の古墳サイト様では、上記の跡を、72号古墳(地番100)としているが、72号古墳のスケッチ図の様子(墳丘が高く、墳丘の手前、両脇に大きな木)とはかけ離れている。(ただし、地番100は隣なので矛盾はなく、時を経て、ここまで 荒廃した可能性もあるかも?)

または無名2号墳(地番103)とするサイト様もあり、「群馬県古墳総覧」の分布図から すると可能性はあるが、他のデータがなく何とも言えない。
 

史跡指定 所在地 群馬県利根郡川場村大字天神302
(利根郡川場村大字天神字八幡302ノ乙)
別名 川場村84号古墳(上毛古墳綜覧〈1938〉)
川場村0007 天神古墳群
アクセス
駐車場
形状 前方後円墳
(封土がなく、墳丘規模不明)
築造年代 7世紀代?
埋葬施設 横穴式石室
幅:1.9m 石室長:3.3m 深さ:1.6m
幅:1.1m 石室長:3m 深さ:1m
出土品 不明
周辺施設  
調査歴 (大正15)
文献 『上毛古墳綜覧』 1938 群馬県 更新履歴

探検日(写真撮影日)  2022年09月04日
最新データ更新日  2022年09月17日

【参考文献】
□「上毛古墳綜覧〈1938〉」
群馬県古墳総覧〈2017〉本文・一覧表編/古墳分布図編
□群馬県遺跡台帳II 西毛編 群馬県文化財保護協会
□「古墳めぐりハンドブック」群馬県立博物館
群馬の遺跡〈4〉古墳時代1―古墳
東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」119)
スソアキコのひとり古墳部 (コミックエッセイの森)
東国大豪族の威勢・大室古墳群 群馬 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
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