【旧入野村の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
旧入野村(→吉井町→高崎市)で63基の古墳が確認されている(入野村1号〜63号古墳)。(上毛古墳綜覧〈1938〉)
【多比良地区の古墳】
多比良地区(旧多比良村→入野村)では、史跡に指定されている諏訪前古墳(多比良古墳・入野村53号墳)含む24基の古墳が「上毛古墳綜覧」には記載されていたが、現存し、見学可能な古墳は諏訪前古墳くらいである。
また、近年の発掘調査で、古墳跡含む多数の古墳が確認されており、「群馬県古墳総覧〈2017〉」には、多比良地区だけでも、十数基の古墳が新たに発見されている。
諏訪前古墳の南側の小字・天神原の天神原遺跡では、県道41号・神田吉井停車場線(じんだよしいていしゃじょうせん)の建設にあたり、1996年(平成8年)から発掘調査され、天神原遺跡1号墳〜5号墳が確認されている。
天神原遺跡の発掘調査報告書によると、この遺跡と同じ台地には、「上毛古墳綜覧」に「諏訪前古墳(入野村53号墳)しか記載されていない」とあるが、上記の天神原遺跡5号墳と隣り合った番地2150に「天神塚古墳(入野村54号墳)」の記載もある。
ただし、マッピングぐんまには、「02978 遺跡名なし(全く残っていない。天神塚)」とあり、既に消滅したようである。

▲諏訪前古墳と天神原遺跡周辺
●諏訪前古墳 ■多比良天神原遺跡
●天神塚古墳
多比良天神原遺跡は道路にかかる区画のみの調査のため、周囲にはもっと多くの古墳が存在する可能性がある→詳細は多比良天神原遺跡
|
新資料入手によるデータ更新の
ため、写真は旧データから
(2013年訪問時のもの)
オリジナルがなく、劣化縮小版のみ
↓

▲石組のみ
|
【諏訪前古墳(多比良古墳)】
諏訪前古墳(多比良古墳)は、1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、入野村53号古墳と採番されている。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」
固有名称としては「妙義塚」と記されており、妙義山の山岳信仰の塚として利用されていたようで、「室ノ上ニ小詞(妙義神)ヲ祀ル」とある。
諏訪前は小字、多比良は大字であり、周辺の土地の人々は往年より「諏訪前古墳」と呼称している
そうだが、調査を実施した群馬大学の尾崎教授はその報告書の中で「多比良古墳」
の呼称を用いている。
その為、『群馬県遺跡台帳II(西毛編)(1974)』、『群馬県史
資料編3(1981)』には、多比良古墳の名称で記載されている。
史跡名としては「諏訪前古墳(多比良古墳)」と登録されているが、「群馬県古墳総覧〈2017〉」には「多比良諏訪前古墳」となっている。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」には、
「丸塚」「墳丘ノ直径三十八尺(約11.5m)高サ九尺(約2.7m)」
となっており、調査時点では墳丘は残存していたようであるが、それから間もなくの1940年(昭和15年)頃、墳丘は削平され、横穴式石室の石組だけになったようである。
【截石切組積の精巧な石室】石室の開口は古かったようで、「既ニ発掘セラレタリ時代ハ不明」となっており、出土遺物の伝承もない。
1953年(昭和28年)、群馬大学教授尾崎喜左雄氏によって石室の実測調査が実施された。
石室石材は多胡碑と同じ牛伏砂岩(多胡石)を使用し、石材加工は精巧な切石で、一部切組積み
の手法を取り入れた高度なものである。
石材、石室構築方法、平面形態などは、多胡薬師塚古墳と類似する。
|