【磯浜古墳群】
国指定文化財等データベースでは
「茨城県中部、那珂川・涸沼川水系の河口部に位置する古墳時代前期から中期初頭の古墳群。前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳1基ほかの6基からなる。
日下ヶ塚古墳は墳長約101.4mの大型前方後円墳で、人骨のほか鏡2面・石製模造品・玉類・鉄製品など約4、000点の豊富な副葬品が出土し、車塚古墳は直径約88mで、全国屈指の規模を誇る。
古墳時代前期から中期初頭の関東における古墳の展開を考える上で重要」
としている。
茨城県内の古墳の国指定としては4件目であるが、3〜4世紀の前期古墳としては初であり、また古墳単体では「磯浜古墳群」として、群構成での指定も県内初である。
ただし、史跡の範囲は6基(湮滅古墳含む7基)中、地権者の同意が得られた姫塚古墳、日下ヶ塚古墳、車塚古墳の3基となる
。
いばらきデジタルまっぷは2022年10月現在、まだ更新されていないようで、「磯浜古墳群」の名はなく、県指定史跡として「車塚古墳群」「日下ヶ塚(鏡塚)古墳」などがある。
資料によっては日下ヶ塚古墳の別称である常陸鏡塚から、「鏡塚古墳群」との呼称もあるが、国史跡指定後は「磯浜古墳群」と統一されたようである。
【古墳群の由来・来歴】
文政8年(1825年)、日下ヶ塚権現台(磯浜海防陣屋)に遠見番所の設置のため、日下ヶ塚古墳の前方部から採土された。
「新編常陸国誌」の墳墓の項に
「車塚」があり、名称は宮車から来ているとし、また、別名として徳利塚、琵琶塚の名を挙げており、古墳の周りに土甕を並べて埋めていたことから徳利塚、またその形などから琵琶塚と呼ばれると伝えている。
「茨城県古墳総覧(1959)」には
「常陸鏡塚古墳」、「車塚古墳」、「ぼちやの山古墳」と、一号墳〜五号墳(2基湮滅)の記載がある。
「茨城県遺跡地名表(1970)」には、
「鏡塚古墳群」として、
「県指定史跡 日下塚古墳、車塚古墳
前方後円墳2基、円墳7基」とされている。
「重要遺跡調査報告書1(1982)」には、
「鏡塚古墳群」として、字日下ヶ塚に大洗神社の神陵と言われる「鏡塚(日下ヶ塚古墳)」の他、前方後円墳1基(坊主山古墳?)と円墳2基(姫塚古墳、車塚古墳?)と記されている。
「東茨城郡誌(1986)」の古墳の項に
「磯浜の車塚」があり、徳利塚、琵琶塚の別称と、車塚の東西にも大きな塚があるとし、また、磯浜の他の古墳として、諏訪塚、日下が塚などの名が見える。
(車塚古墳の東西に大きな塚とは、東は坊主山古墳とすると、西は右記の湮滅古墳か、西側に存在した
という別の古墳か?
1949年(昭和24年)の日下ヶ塚古墳の調査時には、西側に2基の円墳が確認されているという。
日下ヶ塚古墳は磯浜のその他の古墳として挙げられており、すると、もう一基の諏訪塚は姫塚古墳か、五本松古墳か?
かつて車塚古墳の墳頂には諏訪神社が祀られていたといい、車塚古墳は小字諏訪
、姫塚古墳と五本松古墳は小字諏訪脇である)
「大洗町車塚古墳群測量調査報告書(1971)」には、車塚古墳群として
日下ヶ塚古墳、車塚古墳、坊主山古墳、姫塚古墳の4基としており、西側に所在した2基の古墳は湮滅したとある。
|

▲▲磯浜古墳群分布図
(各種資料を基に独自に作成)
Aが五本松古墳
Bが五本松下古墳
|
【湮滅した円墳?】
昭和20年代、國學院大學により日下ヶ塚古墳の調査が行われた際に、周辺も踏査され、この一帯には数基の円墳が存在することが確認されていたが、その後の宅地化により、墳丘は消滅して、所在不明となっていた。
五本松古墳、五本松下古墳はその失われた「円墳」か?
【五本松古墳】
五本松古墳は車塚古墳の
すぐ北側で墳丘が失われ、周溝のみが検出された2基の古墳のうちの西側の1基。
国史跡の磯浜古墳群中の一基として数えられているが、史跡の範囲には含まれていない。
2016年に個人より寄付された土地ということで、2018年に調査され、周溝が見つかった。
ほんの一部分の調査だが、くびれ部らしき部分が検出されたたため、全長40〜50mの前方後円墳もしくは前方後方墳と推定されている。
周溝から出土した壺や鉄片から、3世紀後半〜4世紀初頭にかけての築造と推定されている。
磯浜古墳群中では、最も古い姫塚古墳の次に築造され、五本松下古墳、坊主山古墳へと続く。
「大洗町車塚古墳群測量調査報告書(1971)」では、上記の踏査時に確認されていた、古墳群がある台地西側にあった2基の円墳が湮滅したとある。
五本松古墳は、車塚古墳から見たら西側であり、湮滅したという2基の1基の可能性も?
また、左記の通り、「東茨城郡誌(1986)」にある「諏訪塚」の可能性もあるのか?
【五本松下古墳】
五本松下古墳は車塚古墳の
すぐ北側で墳丘が失われ、周溝のみが検出された2基の古墳のうちの東側の1基。
国史跡の磯浜古墳群中の一基として数えられているが、史跡の範囲には含まれていない。
保育施設の建設地で周溝が見つかったといい、出土した土器片などから五本松古墳のすぐ後の築造と推定されている。
埋葬施設が地下保存されているという話もあるが、真偽は未確認。
「常陸の古墳群」では、2019年1月に「新発見」とある。
2018年の五本松古墳の調査に続いて、こちらも調査されたのか。
保育施設は1970年に事業開始しているらしいので、建物を建設する際に発見されたのかと思ったが、違うらしい。(詳細は不明、確認中)
|