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みびょうづかこふん / むらきみこふんぐん
御廟塚古墳 / 村君古墳群

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村君古墳群

村君古墳群は、群馬県との境、利根川の急激な曲がり角の自然堤防上に築かれた古墳群で、榛名山噴火の堆積物から、5世紀末〜6世紀初頭と考えられている。

8基(村君古墳群一覧表参照)の存在が知られているが、現在、墳丘が現存するのは、永明寺古墳御廟塚古墳稲荷塚古墳の3基 のみである。
 

彦狭島王墓の伝承

この御廟塚には、彦狭島王(ひこさしまのおう)(崇神天皇の皇子で、東国に赴任し、毛野氏の祖となった豊城入彦命の孫 )の墳墓であるという伝承が残っている。

明治政府による陵墓探索が盛んに行われた時期にこの御廟塚についても調査され、伝承の存在は認められたものの、群馬県内にも彦狭島王の墓と伝えられる古墳は複数存在しているため、断定はされなかった。

ちなみに、すぐ南に所在する加須市の樋遣川古墳群は、彦狭島王の子である御諸別王の『陵墓伝説地』と認定されている。

前方後円墳だが、「二塚アリ」とされていて、『大日本國誌』では、北側の塚を「彦狭島王」、南側を「村君太夫(※)」の墓としており、陵墓調査時の『古墳取調書』では南側の古墳を「御廟塚」とし、多少の混乱がある。

(※)「村君太夫」とはこの地の有力者のようで、彦狭島王をこの地に葬ったとも、彦狭島王の子 の御諸別王の娘が嫁いだとも。
 



▲東側から、前方部と思われる南側の塚
 


▲北(用水)側から

多くの石造物が取り囲んでいる

かなり削られ変形しており、
現状、円墳のように見える
 


用水による分断と破壊

古墳中央を用水が通り、分断されており、前方部と思われる南側の墳丘のみ、痕跡が残っている。

塚を守っていた鷲山成就院文殊寺が、明治初めに廃止され、民有化されたため、明治13年(あるいは8年)に開墾され、後円部と思われる北側の塚は平地となったが、その際、石室が発掘され、副葬品の轡が出土したとされている。

出土品は再埋納したという。
(何でも祟りがあったとか…)

「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」では「天井石民家にあり」となっているが、所在は不明。
 

所在地 埼玉県羽生市大字下村君374
所有者:個人?
アクセス
駐車場

駐車場なし 
別名 稲荷塚古墳
史跡指定  
築造年代 5世紀末〜6世紀初頭
形状 前方後円墳
埋葬施設 石室
天井石:幅1.2m 長さ:2.1m
出土遺物 轡1
円筒埴輪、形象埴輪
調査暦   更新履歴

探検日(写真撮影日) 2019年12月15日
最新データ更新日 2019年12月31日

文献 埼玉県古墳詳細分布調査報告書
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 北足立・入間
埼玉県の歴史 (県史)



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