【村君古墳群】
村君古墳群は、群馬県との境、利根川の急激な曲がり角の自然堤防上に築かれた古墳群で、榛名山噴火の堆積物から、5世紀末〜6世紀初頭と考えられている。
8基の存在が知られているが、現在、墳丘が現存するのはこの永明寺古墳の他、御廟塚古墳、稲荷塚古墳の3基のみである。
700mほど南西にある御廟塚古墳は彦狭島王(ひこさしまのおう)(崇神天皇の皇子で、東国に赴任し、毛野氏の祖となった豊城入彦命の孫)の墳墓であるという伝承がある。
南に所在する加須市の樋遣川古墳群も、彦狭島王の子である御諸別王の「陵墓伝説地」と
なっており、稲荷塚古墳上の鷲宮神社に合祀された横沼神社は御諸別王の娘を祀るといい、豊城入彦命の末裔に関する伝承が多い。
【永明寺古墳】
永明寺古墳は、埼玉県内で確認されている前方後円墳の中でも10番目の規模を誇る。
行田市のさきたま古墳群と同時期に、毛野(群馬)との国境付近に造られたことからも、両者は無関係ではないと思われ、興味深い。
さきたま古墳群の被葬者は大和政権から毛野に対抗するために遣わされた人々という説があり、この永明寺古墳もその関係者のものとすると、利根川対岸の毛野に対する示威のために造られたのかもしれない。
利根川の流れと主軸を平行にし、対岸の毛野からは最も大きく見えたことと思われる。
【複数の埋葬】
1931年(昭和6年)、後円部の薬師堂の下から、礫槨(竪穴式石室?)と思われる主体部が発見され、多くの副葬品が出土した。(副葬品は一括して市の有形文化財に指定された)
出土した副葬品は武具や馬具が多く、武人のものと思われるが、年代が6世紀後半のものと思われ、古墳が造営された時期よりも少し遅い時期のものであることから、追葬されたものではないかと推測されていた。
近年の地中レーダー探査では、複数の埋葬が確認され、古墳造営時の主体部が未だに眠っている可能性が濃くなった。
【伝説の地だが、なぜか影は薄い】
前述の通り、この地は豊城入彦命の末裔にまつわる伝承が色濃い地だが、この永明寺古墳は周辺で最大規模の古墳であるにもかかわらず、「貴人の墓」というだけで、他の古墳のように、具体的に彦狭島王、御諸別王などの名が挙げられないのが逆に不自然にも思えて、興味深い。
明治政府による陵墓探索が盛んに行われた時期、御廟塚古墳は彦狭島王の墳墓の伝承地であることは認められたが、この永明寺古墳について言及がないのも不思議である。
南の樋遣川古墳群は、御諸別王の墳墓とされる御室塚の他にも、付近の小古墳も調査され、稲荷塚、浅間塚も関係地として、「御陵墓伝説地」
に内定したことと比べると、それらより遥かに規模の大きな前方後円墳である永明寺古墳の影は極めて薄い。
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