【仙波古墳群】
仙波古墳群は小仙波町・西小仙波町・通町・南通町・菅原町・富士見町を中心に展開している古墳群。
現存するのは前方後円墳2基、方墳1基、円墳3基の計6基のみ。 (仙芳仙人塚を除く)
喜多院を中心に分布する支群3基を小仙波(こせんば)古墳群、そこから南に離れて
、国道16号線付近に分布する支群3基を大仙波(おおせんば)古墳群と呼んで区別することもある。
【仙波古墳群の由来・来歴】
『武藏三芳野名称圖會』には、
「武藏野なりし頃、此辺の野中に百塚あり」
とあり、周辺にはかつては多数の古墳が存在していたと思われる。
『入間郡誌』の『小仙波の草創及発達』の項には
『小仙波の付近古代にありては古墳群の存せしものなるに似たり。 今の喜多院境内、慈眼堂の山は、其形状頗る瓢形古墳に彷彿し、多宝塔の存せし台地の如き、入定塚の如きは、其周囲に存する小墳なりしものならん。
其瓢塚たり、古墳群たりしは人類学教室の遺蹟報告にも見えて、瓢塚の形状甚だ大なるは思ふに稍地位あり、勢力ありし人の墳墓たらずんばあらずと雖、其如阿なる人を葬りしやの如きは、到底解决すべからざる問題に属す。
然れども其古く開けて、重きを為せし処たりしは之に依て略ぼ推察するに難からずとす。』
『新編武蔵風土記稿』の大仙波村の項に、
「塚三 六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあるが、これらの古墳の所在は不明である。
また、氷川神社の西南には古穴の存在が知られており、台地に沿って西南方向に100基以上造られていたと推定される岸町横穴墓群に続いていたと思われる。

▲仙波古墳群+六塚古墳群(仮)
分布図
※各種資料を基に独自に作成したもので、
誤り等あるかもしれません。
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▲東側から
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【慈眼堂古墳】
仙波古墳群の北側の支群・小仙波古墳群に分類され、現存する3基のうちの1基である。
喜多院の境内に所在し、墳丘上に喜多院中興の祖である慈眼大師・天海大僧正を祀る『慈眼堂』が建立されていることが古墳名の由来である。
墳丘上には歴代住職の墓地などもあり、著しく墳型が崩れ、円墳状を呈しているが、前方後円墳で、仙波古墳群の
主墳ではないかと考えられている。
学術調査が行われていないので、前方後円墳と断定はできないが、
『仙波の郷土史』に
「東西に約三十間、南北に二十五間、約四八五坪ある。
前の高さ約三間(東方)
円(西方)は五間であって、即ち前が方形で、後が円形につくられ、之が前方後円式と称される古墳時代全盛期の築造されし様式」とある。
左記の『入間郡誌』にも「瓢型古墳」の言葉もあり、古くより前方後円墳と認識されていたようだ。
【天海僧正と石函】
喜多院は、天長7年(830年)、円仁(慈覚大師)が無量寿寺として開創し、慶長4年(1599年)、徳川家康公の信任を得た天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。
寛永15年(1638年)に起こった川越大火により山門を残し、喜多院はほぼ全焼し、徳川家光公により喜多院は再建される。
寛永16年(1639年)、山門の東側に所在する日枝神社古墳に墳丘上に多宝塔建設
する際、主体部が発見されたようで、出土した副葬品は石函に入れられ、再埋納された。
石函発見時の新聞記事は、蓋の裏の墨書きについて「天海大僧正の直筆らしく」と伝えており、真偽は不明だが、石函に入れ、再埋納という極めて適切な処置には、やはり天海僧正の意向があったものと思わる。
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