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こうとくじ1ごう〜3ごうこふん / おもてこふんぐん
廣徳寺1号〜3号古墳 / 表古墳群

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表(おもて)古墳群

表地区の廣徳寺付近には、廣徳寺古墳と廣徳寺1号〜3号古墳の4基確認されており、表古墳群と呼ばれているようだ。

ここから北の、「美保谷宿」には美保谷宿古墳群には2基の古墳が残存している 。

さらに北接する「東大塚」の東大塚古墳群(東大塚三塚)には3基の古墳が存在し、
現在、行政区は「美保谷宿」と「東大塚」「表」に分かれているが、3つの古墳群は荒川沿いに築かれた同一の古墳群か、関係が深い間柄と推測することもできる 。

圏央道新設に伴う発掘調査で、両者の拠点ともいうべき集落跡などの遺跡も見つかっている。(詳細は三保谷宿古墳群と表古墳群
 

廣徳寺1号〜3号古墳

廣徳寺1号〜3号古墳は径:20mの円墳とのことだが、原位置、現状等の詳細は不明。

埼玉の古墳 比企・秩父」には記載があったものの、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書 」には記載されていないので、おそらく昭和以前に消滅したものと推測される。

埼玉の古墳 比企・秩父」によると、養竹院に組み合せ式の箱式石棺に用いたと考えられる緑泥片岩3枚が保存されているとのこと。

養竹院にて探したが、右の写真にある一枚しか、それらしきものが見つからなかった。お寺の方もいらっしゃらず、お話が聞けずに残念。

美保谷宿のすぐ北の東大塚にある大塚古墳から出土した箱式石棺と同様のものか?
 



太田道灌の陣屋跡

養竹院は、寺伝によると、太田道灌の甥で養子となっていた岩付城の太田資家により、明応年間に養父の追福のために、陣屋跡に建立されたという。
 



▲養竹院の庭にあった石棺材らしき緑泥片岩▲

下側を覗いてみたが、組み合わせ式に使う溝らしきものはなかった
側面ではなく、蓋に使われたものか? ただし、大塚古墳から
出土したものは蓋石にも溝があったので、違うかもしれない
 

▲養竹院 南側から

この右手(東側)の小さなお社
(右の写真)の前には
太田道灌の陣屋跡」と
書かれた小さな石碑がある

▲天神社と弁天社?

右側の古い木の解説板には
「弁天さま」「天神さま」の文字が。
「新編武蔵風土記稿」の挿絵にも
天神社と弁天社があったという
ので、このお社がそれかも?
 

▲小社前の石材

石棺の石材をお社への通路として
使う例もあるので、もしかしたら
これもと思ったが、緑泥片岩には
見えないので違うかもしれない
 

廣徳寺古墳

北西300mほどにある廣徳寺の
境内(墓地)にある円墳

伝・美尾屋十郎廣徳の墳墓とも。
 
所在地 古墳 原位置不明
埼玉県比企郡川島町表9 養竹院 石材の保存?
アクセス
駐車場

川島町の古墳地図 
別名  
史跡指定  
築造年代  
形状 円墳
径:20m (埼玉の古墳 比企・秩父
埋葬施設 組み合せ式の箱式石棺?
出土遺物  
調査暦  
文献 埼玉県古墳詳細分布調査報告書
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 比企・秩父 さきたま出版会
埼玉県の歴史 (県史)
 

探検日(写真撮影日) 2019年07月10日
第二回探検日(写真撮影日) 2021年06月29日
最新データ更新日 2021年08月11日



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