【東大塚古墳群】 東大塚古墳群は市野川の西岸の微高地に築造された古墳群
で、堤防や道路拡張などで多くの古墳が破壊された。
現在、堤防沿いに3基の円墳(大塚古墳、愛宕塚古墳、諏訪塚古墳)が確認されており、「東大塚三塚」と呼ばれている
。
しかし、現在、川島町遺跡地図には大塚古墳のみで、他の2基は記載されていない。
▲東大塚三塚
川沿いに南に下ると、三保谷宿古墳群と表古墳群が続き、その間に拠点ともなるべき集落跡なども近年の発掘調査で、確認されているため、深い関連性がうかがわれる。
【大塚古墳】
『大日本國史 武藏國』の『古墳墓』の項に『東大塚古墳』の名称での記載がある。
それには、文化年間(1804〜1818)に墳丘上の神明社の修理の際に墳頂が削平され、「青石の石櫃」(緑泥片岩の箱式石棺)が掘り出され、直刀、鉄鏃
などの副葬品が出土したことが記されている。
副葬品は領主・秋元但馬守に届出されたというが、その後の行方は伝わっておらず、現在は所在不明となっている。
その後も墳丘の南側や東側が削られ、北側は堤防で埋められ、堤防の斜面から、墳丘が僅かに突き出たようになっているだけでまず古墳とは分からない。
1991年(平成3年)に、東側の開発のために、緊急の測量・周溝確認調査が行われている。
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