【三保谷に関わる古墳】
美保谷宿には現在、2基の古墳が確認されているが、「美保谷宿」の範囲から外れて南側の「表」には美保谷郷を本拠地としていた、源頼朝に仕えた御家人で「平家物語」「吾妻鏡」に登場する美尾屋十郎廣徳の館跡とされる「廣徳寺」と、墳墓と伝えられる「廣徳寺古墳」が所在する
。
また、廣徳寺には、源の頼朝の妻、北条政子が美尾屋十郎廣徳のために建立したという国指定の重要文化財の大御堂(おおみどう)もあり、一見の価値ありの素晴らしいものである。
「美保谷宿」に北接する「東大塚」の東大塚古墳群(東大塚三塚)には3基の古墳が存在し、そのうちの大塚古墳からは箱式石棺が出土しているが、表古墳群の廣徳寺1号〜3号古墳からも箱式石棺が出たという伝えもあり、緑泥片岩3枚が養竹院に保管されていという。(1枚のみ確認)
現在、行政区は「美保谷宿」と「東大塚」「表」に分かれているが、3つの古墳群は荒川沿いに築かれた同一の古墳群か、関係が深い間柄と推測することもできる
。
【新たな発掘調査の結果】
2005年〜2007年に行われた圏央道新設に伴う発掘調査の結果、
「富田後(うしろ)遺跡」から、古墳時代前期の集落や後期の古墳跡などが発見されており、遺構数やその密度から古墳時代における拠点的な集落があったことが確認された。
「元宿遺跡」でも、古墳時代前期の方形周溝墓や、後期の住居跡等が確認されている。
立地的にも、両遺跡付近を中心とした有力な勢力があり、3つの古墳群を包括する大古墳群を形成していた可能性がある。
【三保谷(みほや)の由来】
三保谷は美尾屋(みおのや)氏の本拠地であった三保谷郷に由来し、古くは水尾谷、三尾谷、美尾谷とも書かれていた
「みお」は「澪」で水の流れを意味し、たびたび水害にあったという
現在は三保谷宿の地名が残り、読みは「みほや」となっている
ちなみ、名前の由来となった美尾屋十郎廣徳の館跡とされる「廣徳寺」は三保谷宿ではなく南側の表「おもて」に所在する。
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