【愛宕山古墳群】
愛宕山古墳群は那珂川西岸の河岸段丘上に位置し、国史跡の愛宕山古墳を主墳とし、前方後円墳2基、円墳数基からなる
。
いばらきデジタルマップでは、「愛宕山古墳群」は前方後円墳2基、円墳2基(一部湮滅)となっている。
前方後円墳2基は、愛宕山古墳と姫塚古墳である。
愛宕山古墳は、全長137mに及ぶ前方後円墳で、茨城県内では3番目の規模を誇る。
姫塚古墳は愛宕山古墳の東方60m付近の住宅地に所在したが宅地開発により消滅した。
付近には10数基の円墳が所在したという話であるが、現存するものとして知られているのは馬塚古墳(移設?)のみである。
「茨城県古墳総覧(1959)」には、愛宕町に、愛宕山古墳、姫塚古墳、駿馬塚古墳、狐塚古墳、稲荷塚古墳の前方後円墳2基、円墳3基の記載がある。
駿馬塚古墳は、現在の馬塚古墳のこと
と思われ、狐塚古墳は明治年間に、兵営建設により削平されたという。
稲荷塚古墳というのは、古墳群の南東隅に位置し、国造の古墳造営にまつわる伝承が残る「一盃山稲荷神社」のことと思われるが、古墳かどうかは定かではなく、現在、愛宕山古墳群には数えられていないようである。
また、姫塚古墳の東に15mほどの「1杯塚」が所在するという文献もあるが、これも一盃山稲荷神社(稲荷塚古墳)のことか。
2014年(平成26年)には、
旧水戸生涯学習センター解体撤去に伴う発掘調査で、5号墳、6号墳、7号墳の古墳の周溝の一部が確認されている。
【初代 仲国造の墳墓説】
愛宕山古墳群は、古代にこの地にあったとされる仲国造(なかのくにのみやつこ、那珂国造、那賀国造、常道仲国造とも)の一族との関わりを指摘されている。
愛宕山古墳は初代国造であったの建借馬命(たけかしまのみこと)の墳墓とし、姫塚古墳をその妃の墳墓と推定する説がある。
『国造本紀』では、成務天皇の御世に初代国造に任じられたとあり、
『常陸国風土記』では、崇神天皇の御世に東国の賊を討伐するために「建借間命」が派遣されたとある。
また、国造の設置が成務期であるとすると、また、愛宕山古墳に先行する常陸鏡塚古墳(日下ヶ塚古墳)の存在から、建借間命の二、三世代後の人物が被葬者と推定する説もある。
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▲西側から後円部
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【愛宕山古墳】
愛宕山古墳は愛宕山古墳群の主墳であり、現在、墳丘が確認できる2基のうちの1基であり、国の史跡に指定されている。
全長137mに及ぶ前方後円墳であり、那珂川流域では最大規模であり、茨城県内では、石岡市の舟塚山古墳、常陸太田市の梵天山古墳に次いで3番目の規模を誇る。
標高約30メートル、周辺からの比高約25メートル、主軸は後円部を北西に置き、前方部を南東にむけて築造されている。
宅地化が著しいため、規模は不明であるが、区割りから盾形の周濠をもつと考えられる。
1978年(昭和53年)の範囲確認調査で、周濠内から比較的大型の円筒埴輪片や須恵器が出土している。
【埋葬施設】
未調査のため不明であるが、後続すると推定される姫塚古墳が竪穴系の粘土槨でと推定されているので、墳頂部に竪穴系の埋葬施設が存在する可能性が高いと思われる。
しかし、「東茨城郡誌(1986)」には、
「近年其後方の南面に石階を築くべく、土を崩せしに石槨及び美術的なる花瓶、勾玉等現はれたれば、元のごとく土を覆ひたりと」
とあり、南側の階段付近に埋葬施設が存在する可能性もある。(下図の後円部頂に続く階段付近か?)
横穴式石室ではなく、竪穴系であれば、中心からずれているようなので、主たる埋葬施設ではなく、第二、第三の埋葬施設である可能性もあるのかもしれない。
▲愛宕山古墳実測図
「茨城県史. 原始古代編」より
【古墳の名称】
名の由来となった愛宕権現は987年に常陸国府中(現石岡市)に勧請し、その後、水戸城内に遷座されていたものを、1580年に現在地に遷座されたと言い、それ以前は三島神社境内
となっていたため、「三島山」という別称もあるようだ。
また、その形から「琵琶島」とも。
「袴塚古墳」との別名もあるが、古くは「袴塚村」に所在し、現在も袴塚の地名は残る。
吉田神社の1201年の文書に、「袴墓(はかまつか)郷」とあるということから、
そもそもは古墳が由来の地名と思われる。
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