【埼玉2号墳・梅塚古墳】
さきたま風土記の丘内で、東西南北に、将軍山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、稲荷山古墳の巨大古墳に囲まれた位置に所在する小円墳群(南小円墳群10基)中の1基。
埼玉2号墳(梅塚)〜7号墳までは、かつては農地で、墳丘が削平されており、所在が分からなかったが、1968年(昭和43年)、航空写真によりクロップマーク(※)が確認された。
(※) 農地などで、植物がその生育度合いの差によって作り出す模様のことで、埋没した遺跡の上に現れ、発見の手がかりとなる。
1974年(昭和49年)、1号墳〜7号墳まで発掘調査され、1989年(平成元年)に、「埼玉古墳群」の史跡範囲に追加指定された。
北の稲荷山古墳の外堀との間は14m、南の3号墳とは13mと近接している。
【梅塚の由来・来歴】
この2号墳は、古くは『忍名所圖會(1835)』にて「梅塚」と記された古墳のようである。
『史蹟埼玉(1936)』では、「麿梅墳址」とされ、「丸墓山の東方百二十米の地にある。忍名所圖會に聖徳太子の舎人調子麿西行寺の庭前に白梅を植ゆとあり……墳址今は畑となる。」と記載がある。
丸墓山古墳は聖徳太子の舎人・曽我調子麿の墓(丸(まる)墓→麿(まろ)墓?)という伝承があり、調子麿がかつて丸墓山古墳の南側に存在した西行寺の庭に植えたという白梅が、この梅塚の由来のようである。
調子麿が聖徳太子の骨を納めたのが西行寺とも。
丸墓山古墳=調子麿の墳墓説は極めて根拠が薄い。
また、白梅(明治11年に枯失か?)も存在しないが、字丸梅(転じて麿梅?)の地名は残っていたようである。
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