【埼玉古墳群】
埼玉古墳群は、5世紀後半から7世紀中ごろにかけて150年以上にわたり、大型古墳が連続して営まれた、全国有数の古墳群。
二子山古墳を中心に東西1km、南北2kmの範囲を埼玉古墳群とすると、45基とされる。
史跡の指定範囲内に9基(8基の前方後円墳と1基の円墳)、史跡範囲外に2基(1基の円墳と1基の方墳)の合計11基の大型古墳が所在する。
その他、史跡範囲の内外に、40基以上の小円墳が所在していたと推定されているが、消滅した古墳も多い。
史跡の北側を流れる忍川の対岸、北側の長野地区に展開する白山古墳群も、埼玉古墳群に含めるものと
される。
埼玉古墳群、白山古墳群と別の名称が与えられ、分けられているのは、現在、間に流れる忍川がかつての埼玉
(さきたま)村、長野村の村境になっており、埼玉古墳群の旧史跡名が、「埼玉村古墳群」となっていたことが要因と思われる。
しかし、近年の調査で、忍川は近世前半の開削と推定され、さらに、
両者を分ける谷状地形は古墳時代には埋没していたことが判明し、両古墳群は一つの狭い台地上に築かれた一つの墓域であったと思われる。
【史跡指定の歴史】
埼玉古墳群周辺は古くより古墳が多数あることで知られ、「百塚(ひゃくづか)」という地名が残るほどであった。
1934年(昭和9年)、埼玉古墳群の東方に位置する若王子古墳が埋め立て用土採取のために完全に破壊され、北方の八幡山古墳の封土も取り去られ、石室がむき出しになった。
古墳群の破壊を憂慮し、1935年6月、埼玉村と埼玉県は二子山古墳、丸墓山古墳、鉄砲山古墳の3古墳を史跡の仮指定を文部省に依頼した。
文部省側は他の古墳も含め、古墳群として一括の保存との見解を示したが、破壊の危機が切迫している3古墳のみ、同年8月に、緊急で仮指定されたが、そのやり取りの間にも、稲荷山古墳の前方部の用土が採取された。
翌年、愛宕山古墳、中の山古墳、奥の山古墳、将軍山古墳、瓦塚古墳、稲荷山古墳、ボッチ山古墳に、先に仮指定された3古墳を含めた古墳群全体を国指定史跡とし、保存することが決定された。
1938年(昭和13年)、大型古墳9基と小円墳のボッチ山が一括して「埼玉村古墳群」として本指定された。
しかし、大半が民有地であったため、戦後も墳丘の削平などが続き、(この時、ボッチ山も消滅と思われる)、公有地化が進められた。
1954年(昭和29年)の行田市との合併、埼玉村の名称の消滅に伴い、1957年(昭和32年)に「埼玉古墳群」に名称変更された。
1938年(昭和13年)の史跡指定は、墳丘のみだったが、「さきたま風土記の丘整備事業」に伴い、周辺広域の公有地化、整備がすすめられ、1989年(平成元年)、
周堀など周辺地域も追加指定された。
この時、稲荷山古墳と二子山古墳の間で、1974年(昭和49年)の調査時に確認された小円墳7基(埼玉1号〜7号)も史跡に含まれるようになった。
2013年(平成25年)にさらに大型古墳の周堀部分などが史跡範囲に追加指定された。
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▲北西側から
左奥が前方部、右手前が後円部
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【将軍山古墳の概要】
この二子山は、埼玉古墳群中の8基の前方後円墳中では
最大で、埼玉県でも武藏国でも最大である。
墳形は稲荷山古墳、鉄砲山古墳
と同様、大阪の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に類似し、稲荷山の1.15倍の相似形
となっている。
「さきたま風土記の丘」で中央に位置し、保存状態が良く残っていた。
用土採取による古墳破壊が進んでいた1935年に、最初に保存のために史跡の仮指定された3基の古墳のうちの1基である。
他の遺構との重複はないが、西側の愛宕山古墳の外堀とは20m、天祥寺裏古墳とは15m、北側の埼玉7号墳とは10mと近接
している。
堀は元々「空堀」だったが、1968年(昭和43年)、内堀修復工事により「水堀」として整備され、その後墳丘の崩落などが続いたため、埋め立てられた。
「観音寺山古墳」の別称は、かつて東側に隣接していた観音寺に由来するという。
【埋葬施設】
未調査で不明であるが、後円部墳頂に直径8m、深さ50cmの陥没穴があり、盗掘を受けた可能性がある。
【二子山の由来・来歴】
『五街道分間延絵図(1806)』の「館林道」に観音寺に隣接する「水塚」があり、これが二子山のことと思われる。
『北部八志(1907)』に、
「両子山 又観音寺山とも云う、高さ五丈周圍七八町、是は唯に本村の巳ならず殆んど本國中の大塚にして之を望むに天然の丘陵の如く車塚の制にして前方公圓壇三也儼然として其形存せり」
『史蹟埼玉(1953)』に、
「丸墓山古墳の南方約三百九米の處に在って、
本村に於ける前方公圓墳の最大なるものである。周湟ありしも今は他となる。湟外西部に壘址を有することは、この古墳に於いてのみ見る特徴とする。東麓に畑地があり、昔時観音
寺ありし址なりといふ。観音寺山の稱ある所以である。」
【埼玉古墳群の被葬者】
武蔵国埼玉郡笠原郷(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持った武蔵国造一族の墳墓とする説が多いようだ。
また、知々夫(ちちぶ)国造とする説もある。
534年に起こった『武藏国造の乱』で、同族の小杵(おき・おぎ)と武藏国造の地位を巡って争い、勝利した笠原直使主(かさはらのあたいおみ)の墳墓が稲荷山古墳、二子山古墳、丸墓山古墳であるとする説もある。
また、633年、武蔵国造に任じられた物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)は、笠原氏の子孫か、後継する一族のものと思われ、北方の八幡山古墳をその墳墓とする説がある。
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【二子山古墳の調査・整備歴】
1935年(昭和10年)8月、国史跡に仮指定され、同10月、埼玉古墳群の分布調査。
1937年(昭和12年)、測量調査。
1967年(昭和42年)、周堀プラン確認のためのトレンチ調査。
1968年(昭和43年)、内堀修復工事により「水堀」として整備。(元は空堀)
1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、後円部外堀の確認調査。
1981年(昭和56年)、下水道工事に伴う行田市教育委員会による調査。
1984年(昭和59年)、前方部外堀の調査。
1990年(平成2年)、前方部南側の民有地が公有地化されたことによる該当部分の発掘調査と内堀復元工事。
2006年(平成18年)、崩落による内堀護岸工事。
2012〜2014年(平成24〜26年)、内堀埋立工事。
2013、2015、2016(平成25・27・28年)、墳丘の崩落状況と、正確な古墳規模の確認のための発掘調査。
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