【埼玉古墳群】
埼玉古墳群は、5世紀後半から7世紀中ごろにかけて150年以上にわたり、大型古墳が連続して営まれた、全国有数の古墳群。
二子山古墳を中心に東西1km、南北2kmの範囲を埼玉古墳群とすると、45基とされる。
史跡の指定範囲内に9基(8基の前方後円墳と1基の円墳)、史跡範囲外に2基(1基の円墳と1基の方墳)の合計11基の大型古墳が所在する。
史跡の北側を流れる忍川の対岸、北側の長野地区に展開する白山古墳群も、史跡の範囲外であるが、埼玉古墳群に数えられる。
【史跡指定の歴史】については埼玉古墳群の項で。
【浅間塚古墳】
埼玉古墳群の大型古墳11基の一つに数えられるが、史跡指定の範囲外であり、さきたま風土記の丘の南東に接する。
墳上には前玉神社、中腹には浅間神社が鎮座し、「浅間塚」と呼ばれていたが、古墳であるかは疑問視されていた。
1996〜97年(平成8、9年) 度、行田市教育委員会によって行われた古墳西側のトレンチ調査により、幅10mの周堀が確認され、円墳であることが判明した。
埴輪片が出土しているが、本古墳に伴わないものとされ(別の古墳からの混入?)、他に時期の特定ができる明確な資料は確認されていないが、埴輪
消滅後の7世紀代と推定されている。
埼玉古墳群を系列で分類すると、第2列の最後の中の山古墳に後続する第3列目に造られ、古墳群の終末期に造られたものと思われる。
墳丘径が約50m(周堀含む径約73m)、高さが約8.5mと推定されており、円墳としては大型で、埼玉古墳群北側の白山古墳と同等規模であり、共に後期から終末期の古墳としては埼玉県内で十指に入る。
ただし、周辺古墳の状況などから、前方後円墳の可能性に言及する資料もある。
トレンチ調査は限定的なものなので、全体的な調査がなされれば、前方後円墳である可能性もなくはない。
北西から南西に並んで近接する鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳に囲まれたスペースに、他の前方後円墳と主軸を同じくして、浅間塚古墳の前方部があってもおかしくはない気がする。
しかし、南西部はトレンチ調査が行われて、円墳とされているので、こちらには前方部がつかないのかもしれない。
他の方角に前方部がつくことは、主軸をほとんど同じくするというこの古墳群の性格から考えにくいので、もしかしたら前方後円墳が造られなくなる時期にかかり、白山古墳と同じく円墳として造られたのかもしれない。
▲浅間塚古墳全測図
「史跡埼玉古墳群総括報告書1」より引用
【由来・来歴】
『北武八志』(1907)には、「其塚の様 殊に古く尋常のものにあらず 上古の人の墳墓をなることを知るべし」とある。
『史跡埼玉』(1936)には、「この塚は墳址といふも稍丘頂及丘腹を平げ前玉神社浅間神社が奉祀せられてあるもので円墳状を失っていない、大字埼玉鉄砲山の東百三十五米の地に存って高八、七米、横径四八米、周囲九三米ある。」
上記の資料では、古墳という認識だったようだが、浅間社を勧請し、古墳を富士山に見立て改変し、「浅間塚」と呼ばれるようになったため、古墳であるか疑問視されるようになったのだろうか。
浅間塚と呼ばれる以前の古墳の固有名称等は不明である。
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