【埼玉古墳群】
埼玉古墳群は、5世紀後半から7世紀中ごろにかけて150年以上にわたり、大型古墳が連続して営まれた、全国有数の古墳群。
二子山古墳を中心に東西1km、南北2kmの範囲を埼玉古墳群とすると、45基とされる。
史跡の指定範囲内に9基(8基の前方後円墳と1基の円墳)、史跡範囲外に2基(1基の円墳と1基の方墳)の合計11基の大型古墳が所在する。
その他、史跡範囲の内外に、40基以上の小円墳が所在していたと推定されているが、消滅した古墳も多い。
史跡の北側を流れる忍川の対岸、北側の長野地区に展開する白山古墳群も、埼玉古墳群に含めるものと
される。
埼玉古墳群、白山古墳群と別の名称が与えられ、分けられているのは、現在、間に流れる忍川がかつての埼玉
(さきたま)村、長野村の村境になっており、埼玉古墳群の旧史跡名が、「埼玉村古墳群」となっていたことが要因と思われる。
しかし、近年の調査で、忍川は近世前半の開削と推定され、さらに、
両者を分ける谷状地形は古墳時代には埋没していたことが判明し、両古墳群は一つの狭い台地上に築かれた一つの墓域であったと思われる。
【埼玉古墳群の被葬者】
武蔵国埼玉郡笠原郷(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持った武蔵国造一族の墳墓とする説が多いようだ。
また、知々夫(ちちぶ)国造とする説もある。
534年に起こった『武藏国造の乱』で、同族の小杵(おき・おぎ)と武藏国造の地位を巡って争い、勝利した笠原直使主(かさはらのあたいおみ)の墳墓が稲荷山古墳、二子山古墳、丸墓山古墳であるとする説もある。
また、633年、武蔵国造に任じられた物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)は、笠原氏の子孫か、後継する一族のものと思われ、北方の八幡山古墳をその墳墓とする説がある。
|

▲戸場口山古墳全測図
|
【戸場口山古墳の概要】
この戸場口山古墳は、埼玉古墳群が史跡指定される以前、1918年(大正7)年に土取りのために削平が始まり、数度に渡って行われ、現在は完全に消滅したという。
墳丘が遺存していないため、内堀などから推測すると一辺42mほどになる巨大な方墳と推定されている。
削平されていなければ、埼玉古墳群の大型首長墓群の一基として、間違いなく国史跡に包括されていたはずで、最後に造られた首長墓と考えられる。
埼玉古墳群の南端の綿柳地区は1889年(明治22年)、埼玉村と
合併するまで、綿柳村であり、東から戸場口山古墳(方墳・消滅)、中の山古墳、奥の山古墳と
3基の大型墳が並んでいたため、「渡柳三大墳」と呼はれていた。
(左図参照)
周堀の範囲は調査範囲が少なく、確定していないが、すぐ西の中の山古墳に続く首長墓のようだが、その外堀を壊す形で
周堀が造られていることが調査で判明した。
二重周堀を有する巨大な方墳は少なく、前方後円墳が作られなくなった時期の首長墓と考えられるが、何故、主流だと思われる円墳ではなく、方墳で造られたか、前代の首長墓と思われる中の山古墳を壊す形で造られたかなど、謎は多く、埼玉古墳群の終焉を考える上でも重要な古墳である。
【埋葬施設】
土取りの際に巨石の石棺が出土し、畳2〜3枚分の巨石や加工跡がある凝灰質砂岩の出土したとの伝承がある。
横穴式石室石材と推定されている凝灰質砂岩に残る工具の跡などから、主流だった胴張り型(中央部で左右に膨らむ)ではなく、直線的な石室プランが想定できるようである。
|