【南大塚古墳群】
南大塚古墳群は入間川右岸にあり、台地縁辺に沿って約3qに渡って、5世紀後半から7世紀代にかけて造られた古墳群。
前方後円墳の南大塚4号墳(消滅)を中心とし、主に小円墳で構成された群衆墳である。
中でも、全国的にも稀な上円下方墳として有名な山王塚古墳は古墳群中最大の規模で、最後の築造と考えられている。
消滅した古墳も含めて、4つの支群の27基が確認されているが、現在、多くの古墳が開発などのために消滅し、確認できるものは年々減少している。(南大塚古墳群参照)
川越市のHPによると、南大塚古墳群は南大塚1号墳から9号墳と山王塚古墳の計10基で構成されており、
この西中原1号墳以西のものは近隣に所在する古墳とされている。
入間川右岸に所在する的場古墳群の牛塚古墳と対峙する位置に所在し、両者の勢力の関係が気になるところである。

▲南大塚古墳群の各支群群
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【永久保地区の古墳】
南大塚古墳群の4つの支群のうち、関越道の東西にまたがり分布する豊田本支群中の古墳である。
豊田本支群は4支群のうち、最も数が多いが、関越道建設や宅地造成などにより、ほぼ消滅、関越道の西側に数基残存するのみである。
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書 」には、旧小字の「永久保」地区に3基の古墳の記載がある。
【永久保2号墳】
永久保古墳の西50mに所在する径20mの円墳。
西中原4号墳とも。
2021年10月の時点で、永久保地区3基のうち、唯一残存しているが、詳細は不明である。

▲永久保2号墳
南側の駐車場から
駐車場のフェンスの向こうの
茂みの下に盛土が見られる |
【永久保古墳】西中原3号古墳(中原古墳)の150mほど西側に所在した径15mほどのの円墳だが、2013年に
は消滅したようである。
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書 」では、永久保古墳となっているが、川越市HPなど資料によっては、大東公民館脇古墳とも。
【二ツ塚古墳】
その名の通り、後円部径が20mの前方後円墳で、2015年前後ごろまで後円部のみが残存していたようだが、現在は宅地化され、消滅したようである。
1916年(大正5年)に菅原神社の社務所を建設するにあたり、墳丘を採土したところ、人骨と直刀(鉄剣)が出土したと伝えられる。
この時に前方部が失われ、遺物は前方部から出土したのか、それとも後円部も削られ、後円部からの出土だったのか?
菅原神社は150mほど東側に所在するため、前方部は東側にあったのかもしれない。
あるいは、北と東に通る道路のために前方部が削られたのか。
ちなみに菅原神社には菅原
神社東古墳が所在する。
川越の情報サイト「カワゴエール」では2011年時点での写真が見られる→二ツ塚古墳
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