【南大塚古墳群】
南大塚古墳群は入間川右岸にあり、台地縁辺に沿って約3qに渡って、5世紀後半から7世紀代にかけて造られた古墳群。
前方後円墳の南大塚4号墳(消滅)を中心とし、主に小円墳で構成された群衆墳である。
中でも、全国的にも稀な上円下方墳として有名なこの山王塚は古墳群中最大の規模で、最後の築造と考えられている。
消滅した古墳も含めて、4つの支群の27基が確認されているが、現在、多くの古墳が開発などのために消滅し、確認できるものは年々減少している。
川越市のHPによると、南大塚古墳群は南大塚1号墳から9号墳と山王塚古墳の計10基で構成されており、西中原1号墳以西のものは近隣に所在する古墳とされている。
入間川右岸に所在する的場古墳群の牛塚古墳と対峙する位置に所在し、両者の勢力の関係が気になるところである。
【被葬者について】
全国的にも稀な上円下方墳を築いたことからも、被葬者ついては気になるところであるが、被葬者に直接つながる発見はない。
『川越の歴史散歩』では、川越を中心とする武藏国入間郡の出身で、奈良時代に武人として活躍した入間宿禰(物部直)広成という人物がいたが、この付近を支配し、南大塚古墳群を築造した首長層は、この広成の祖である物部氏の一族であろうとしている。
【古墳の名称の混乱】
かつては、古墳群は二つの支群に分類され、南大塚○号墳、南大塚第二支群○号墳という名称が混在しており、資料によって、号数が同じ古墳がイコールである場合と、違う場合があった。
南大塚1号墳〜3号墳は1970年代、関越自動車道建設により消滅、南大塚第二支群1号墳〜3号墳は1986年に宅地化のために消滅したらしく、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書
」「埼玉の古墳
北足立・入間 」などでは両者は別の古墳として記載されている。
現在、川越市のHPなどで、南大塚○号墳と表記しているものは、下表の南大塚第二支群○号墳と同一と思われる。
データを整理をしてみると、
「豊田本支群 18基」は、関越西側に7基、関越建設で3基消滅、関越東側に8基とし、
南大塚第二支群4号墳〜8号墳と南大塚4号古墳〜8号墳を同一のものとして、南大塚第二支群3号墳を「中世の塚」として除外すると、18基となり、数は合う。(下記一覧表)
ただし、調査による新たな発見などもあり、番号を整理し、振り直した可能性もあ
るので、かつての番号と現在の呼称は違っているかもしれない。

▲『南大塚古墳群(1988)』より
1 第二支群1号墳、 2 第二支群2号墳
3 第二支群3号墳、 4 第二支群4号墳
5 第二支群5号墳、 6 第二支群6号墳
7 第二支群7号墳、 8 第二支群8号墳
9
山王塚古墳、 10 西中原1号墳
11 西中原2号墳、 12 西中原2号墳
13 西中原3号墳、 13大東公民館脇古墳
13基の記載があるが、名称については
現在とは少し違うかもしれない
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