【若田原遺跡群】
若田原遺跡は烏(からす)川と碓氷(うすい)川に挟まれた八幡台地の中でも、
若田町(若田支台)に展開する中心的な集落遺跡。
八幡霊園の造成に際して発見され、1970年(昭和45年)から1972年(昭和47年)にかけて発掘調査が行われた。
調査で縄文時代前期末から後期初頭にかけての敷石住居2軒を含む竪穴住居跡27軒と、墓と考えられる穴30基が確認された。
また、古墳時代には、峯林古墳(7世紀後半)、楢ノ木塚古墳(6世紀後半)、若田大塚古墳(6世紀初頭)の3基の円墳を中心とした若田古墳群の築造と
住居が営まれていたことが明らかになった。 そのうち、埋め戻し保存されることになった
縄文時代の住居跡3軒、古墳時代の住居跡1軒と、上記3基の古墳をあわせて、「若田原遺跡群」として、群馬県の史跡に指定された。
【若田古墳群】
「群馬県古墳総覧〈2017」では、若田町(旧若田町で現八幡町も含む)に21基ほどの記載がある。
昭和10年の県下古墳の一斉調査では、若田大塚古墳周辺に15基ほど数えられたというが、のちに確認された古墳もある。
八幡霊園の造営に伴い、峯林古墳、楢ノ木塚古墳、若田大塚古墳
、若田A号古墳、若田B号古墳の計5基の古墳が発掘調査されている。
「群馬県史」によると、7基の古墳がほぼ東西に並んでいたとあり、上記の5基の古墳と、付近に存在したはずの八幡村10号、11号古墳を加えた7基かもしれない。
若田A号古墳、若田B号古墳は発掘調査時には墳丘は既に破壊された状態だったという。
現存するのは、八幡霊園内に保存されている3基の他、八幡霊園入り口の道路沿いにある物見塚(休塚)古墳の4基のみである。
高崎市発行の文化財調査報告書などの資料では、八幡霊園内に保存されている3基を特に「八幡霊園内古墳群」と呼ぶこともある。
同じ八幡台地の東側、八幡支台、剣崎支台には、八幡古墳群が展開するが、別とされる。(一体として考えるという説もある)
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▲東側から
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【若田大塚古墳】
若田古墳群中の一基で、八幡霊園の造成時に発掘調査され、若田原遺跡群として周囲の住居跡、古墳と一括で、群馬県の史跡に指定され、霊園内に保存されている。
周囲に存在していた古墳の中では最大級の円墳で、埴輪や副葬品などの出土品から6世紀初頭の築造と考えられている。
明治15年にも地元より県に発掘届が出され、発掘されたということだが、それ以前に既に盗掘を受けた痕跡が見受けられたという。
石室からは横矧板鋲留式短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)、槍、矛などの副葬品が出土している。
【竪穴式石室】
主体部は竪穴式石室であるが、一般の竪穴式とは違い、墳頂に近い部分ではなく、墳頂から5.76mも下の基壇上に造られていることが特筆すべき点である。
基壇上に構築されるのは横穴式石室の特徴であり、また、壁石の積み方は安中市の梁瀬二子塚古墳の横穴式石室に類似しているとのこと。
「群馬県古墳総覧〈2017」では無袖型横穴式石室と記載されて
おり、一見、横穴式にも見えるが、横からの出入り口、横口はついていないところを見ると、やはり竪穴式と言ってよいと思われる。
横穴式石室が南からこの関東の群馬に伝播してきて、多く造られるようになった時期以降に造られたものであるようなので、竪穴式、横穴式が混在する過渡期に造られたのかもしれない。
【古墳の名称】
現在、「若田大塚古墳」という呼称が一般的であるが、県台帳では周囲の古墳3基ともに「若田遺跡(古墳)」と記載されており、固有名称が記されていなかった。
旧八幡村の通番で「八幡村9号」と採番されているが、他に、「稲荷塚古墳」という呼び方もあったようで、マッピングぐんまでも、「稲荷塚(若田大塚)」となっている。
かつては墳頂に稲荷社が祀られていたのかもしれない。
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