【仙波古墳群】
仙波古墳群は小仙波町・西小仙波町・通町・南通町・菅原町・富士見町を中心に展開している古墳群。
現存するのは前方後円墳2基、方墳1基、円墳3基の計6基のみ。
喜多院を中心に分布する支群3基を小仙波(こせんば)古墳群、そこから南に離れて
、国道16号線付近に分布する支群3基を大仙波(おおせんば)古墳群と呼んで区別することもある。
『武藏三芳野名称圖會』には、
「武藏野なりし頃、此辺の野中に百塚あり」
とあり、周辺にはかつては多数の古墳が存在していたと思われる。
『新編武蔵風土記稿』の大仙波村の項に、
「塚三 六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあるが、これらの古墳の所在は不明である。
また、『入間郡誌(1912)』の仙波村大仙波の項に『氷川神社 境内に二三の古墳らしきものを見る』とある。
また、氷川神社の西南には古穴の存在が知られており、台地に沿って西南方向に100基以上造られていたと推定される岸町横穴墓群に続いていたと思われる。
【シシミ塚、シロミ塚】
「シシミ塚」と呼ばれ、浅間神社古墳から150m程西側の東武東上線付近に所在したが、1914年(大正3年)、東武東上線の開通工事の際に破壊された。
碑は便宜上、浅間神社古墳の裾に建てられているといい、古墳の原位置は150mほど西側を通る東武東上線の用地のどこかと思われる
が、正確な位置は不明である。
「シシミ塚」の名は、この地の小名
にも記録が残っており、また「シロシ塚」とも呼ばれ、「シロミ」と転訛して「城見塚」とされたこともあったそうだ。
当時の武蔵野では、鹿の狩猟が行われており、「鹿見塚」は鹿を発見する物見台
ということで、この古墳も鹿見塚として利用されていたなら、大きなものだったと想像できる。 東西50間(約90m)に及ぶ大古墳
で、楕円形だったという話もある。
円墳にしては巨大であり、楕円形だったのであれば、前方後円墳だった可能性もあるのではないか。
二子山と呼ばれるような前方部、後円部がそれぞれ主張しているものではなく、前方部が未発達で小さい、あるいは帆立貝型墳であれば、楕円形にも見えるかもしれない。
帆立貝型墳は、近隣では、同じ川越市の南大塚古墳群の南大塚4号墳や、古谷神社古墳(赤城塚)/古谷古墳群などの例がある。
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▲『万葉遺跡 占肩の鹿見塚の碑』
浅間神社古墳の南東裾と富士見町公民館(左の建物)の間に建つ。
左側の小さな碑は「仙波町略市史」

▲占肩の鹿見塚の解説板
【根拠の薄い史跡比定】
昭和21年に、柴田常恵、小川元吉、岸伝平の三氏の調査によって、ここが万葉集の歌に詠まれた地とされ、埼玉県の史跡に指定された。
当時の武蔵野では、鹿を狩って、その肩骨を焼いて恋の占いなどをする習俗があったそうで、鹿を見つけるための物見台として利用されたと思われる「鹿見塚」の名の持つ古墳を結びつけたものだろうが、少々無理があるように思える。
歌は単に「武蔵野で占いをしたら、秘密の恋人の名が出てしまった」というだけで、「鹿」や「鹿見塚」という文字はなく、場所についても、大きく「武蔵野」としかない。
占いに使われたと推測される骨は鹿=鹿狩りの際の物見台の鹿見塚が歌に詠まれた地は少々苦しい。
仮に、鹿見塚で占いが行われたのだとしても、武蔵野に「鹿見塚」の名は割と多く存在する。 例えば、東京都江戸川区鹿骨町・鹿見塚(ししみづか)神社
や、埼玉県吉川市にも「鹿見塚」という地名が残っており、由来となった古塚は昭和30年頃耕地にされたということだが、鹿の骨にまつわる
地は多い。
当時の武藏野は今より狭い範囲だったということで、この鹿見塚が選ばれたのだろうが、ここの他にも鹿見塚はあったろうし、この鹿見塚周辺から占いに使った鹿の骨が出てきたという伝えもきかず、極めて根拠が薄い。
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▲碑の裏側
文字がびっしり刻まれている
↓以下、碑の内容↓ |
萬葉遺蹟 占肩の鹿見塚
奈良時代に編纂された萬葉集二十巻四千四百九十六首の歌は王朝文学の精華として日本文化の誇りと称されている。その中には本県に関するものが約十四首もあって純真素朴な東歌と賞され郷土人に懐しく伝えられている。 萬葉集 巻十四 東歌 武蔵埜爾宇良敝可多也伎麻左低爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低尓家里
武蔵野に占へ肩灼きまさてにも告らぬ君が名うらに出にけり
往古東国の人々が武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた
。
然るにいつしかシロミと転訛して城見塚と書改められたこともあったが、今も尚シシミ塚として一町七畝余もある。また新編武蔵風土記にも遺跡としてのその小名が地籍に記されている。この地には上代の古墳が遺存し、父塚母塚と呼ばれ、母塚の丘陵上には富士浅間神社を祀り富士の腰と称し、こゝの初山の行事が古来から有名である。
シシミ塚の地域が萬葉占肩歌の遺蹟鹿見塚として柴田常恵小川元吉岸伝平の三氏の調査によって昭和廿一年三月に埼玉県指定史蹟に決定したことは、わが郷土文化の将来のため誠に欣幸に堪えない。仍つて茲に永くこの光栄を記念するため建碑するものである。 昭和二十九年十一月 川越市教育委員長
岸憲夫 撰
川越市立図書館長 相原信達 書
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