【植水古墳群】
植水古墳群は埼玉県さいたま市西区水判土(みずはた)、佐知川に所在し、円墳で構成される。
鴨川(旧入間川)沿いの肥沃な農作地帯に北から植水古墳群、側ヶ谷戸古墳群、大久保古墳群(白鍬古墳群)など長く繋がる古墳群の一支群である。
名称は旧村名の植水村(大宮市→さいたま市)に由来する。
現在、「さいたま市遺跡地図」には、6基(下表1〜6番)が記載されている。
1994年の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」には、
浅間山古墳の記載はなく、発掘調査(1982年〜1983年)で古墳跡が確認された植水1号墳〜8号墳を加え、13基(下表2〜14番)の記載
がある。
2009年発行の「第32回特別展 さいたまの古墳」には、1990年に南側の水判土堀の内遺跡で確認された古墳跡(堀の内古墳)を含め、
浅間山古墳を除いた全14基が記載されている。
現存するのは、神社の土台となっている小山稲荷古墳と原稲荷古墳の2基のみで、他は全て開発により消滅している。
堀の内古墳の東300mほどのところに近接して、さいたま市史跡の側ヶ谷戸古墳群の最北端に
あたるNo.311古墳(消滅)があり、側ヶ谷戸古墳群が南に細長く続いていく。
【八百比丘尼の伝説】
八百歳まで生きたという八百比丘尼の伝説は日本各地に様々な形で伝えられており、さいたま市にも多くの伝承がある。
『諸国里人談』寛保三年(1743)では、
「又武蔵国足立郡水波田村慈眼寺仁王門の傍に榎の伐株あり。周り二丈あまり、筵六畳を敷なりと、これ若狭の八百比丘尼の栽たる木なりと云伝へり。茲に又、掘出しの地蔵といふあり。近年土中より掘出したる本尊なり。その石櫃に八百比丘尼、大化元年(※645年)と彫たり。大化は三十七代孝徳帝の年号にして、寛保まで凡一千百余歳なり」
仁王門の側から「石櫃」に入った地蔵菩薩像が出土したということだ。
石櫃に彫られていた「大化元年(※645年)」は八百比丘尼が生年とも推測される年代であるので、その年に彫られたというより、後世、地蔵尊を石櫃に収める際に八百比丘尼の伝承に沿って彫られたものか。
この「石櫃」というのは、ただの石の箱の可能性もあるが、石室あるいは石棺を指すこともあり、仁王門付近にあったとされる浅間山古墳とからめて考えると、地蔵菩薩像が
古墳の石室や節間から出土したと想像することもできる。
群馬県の保渡田古墳群の「薬師塚」「二子山(愛宕塚)」のそれぞれの舟形石棺の中からも、それぞれ「薬師像」「愛宕像
」が出土しているという話が伝わっており、後に、開口した古墳の石室や石棺の中に仏像を収めるケースは散見される。
なお、『八百比丘尼縁起』では、1723年(享保8年)に延命地蔵尊が石櫃ではなく、石碑とともに発掘されたとある。
八百比丘尼が抱いていたという小さな延命地蔵尊は、現在、慈眼寺の秘仏として残されているということだ。
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▲現在の慈眼寺境内図 (各種資料を元に独自に作成したもの)@
さいたま市遺跡地図の「浅間山古墳」の位置
A 御岳神社などが祀られている小高い庭
B 『新編武蔵風土記稿』にある門外の八百比丘尼碑の石標の推定地
C 2019年以前の八百比丘尼碑の場所(現在は少し南の境内地に移設)
D 慈眼寺脇古墳(消滅)
E 慈眼寺裏古墳(消滅)
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【慈眼寺の八百比丘尼宮】
「水波田(みずはた)観音」の名で知られるさいたま市西区の慈眼寺境内に
、『八百比丘尼宮』という祠が祀られ(←左図のC)、
『八百姫宮略記』が伝えられる。
地元水判土(みずはた)には
「八百歳の時、当地に立ち寄り、善政を施していた当地のお殿様に残りの二百歳の命を差し上げ、自らは紫金の地蔵尊を抱いて亡くなった」
という伝承があり、慈眼寺にある祠は八百比丘尼が亡くなった場所に建てられたということだ。
(なお、「お殿様に残りの二百歳の命を差し上げる」話は日本各地に
同様の伝承がある)
『八百比丘尼宮』=八百比丘尼が葬られた墳墓の上に祠が建てられたのか、あるいは、亡くなった場所に祠のみを建てただけで、八百比丘尼は別の場所に葬られたのか
ははっきり分からない。
『八百比丘尼縁起』では、1723年(享保8年)に延命地蔵尊が出土したとあ
る。
慈眼寺でいただいたパンフレットによると、地蔵尊は寺荒廃の時代に紛失、住僧が探し歩き、享保年間に境内地内より掘り出したとある。
さらに「祠内の石碑(左の写真)は1723年(享保8年)に造られた」とあり、地蔵尊の出土を受け、祠と石碑が造られた可能性もある。
これらのことから、1723年(享保8年)に地蔵尊が出土し、石碑を造って、祠内に安置したことは間違いないと思われるが、時系列が判然としない。
八百比丘尼の伝承が地蔵尊出土より先にあり、祠も八百比丘尼が亡くなったと伝えられる場所に元々、建っていたのか、逆に地蔵尊が出土したことが八百比丘尼と結びついた伝承となったのか。
【地蔵尊の出土地】
上記の八百比丘尼の祠付近の可能性もある。
かつて、少し北側にあった元の祠付近には、真偽は不明だが、古墳か塚のような高まりがあったという話も聞いた。
また、左の【由来・来歴】
に書いた通り、『諸国里人談』によると、仁王門の側から「石櫃」に入った地蔵菩薩像が出土したということになり、八百比丘尼の祠の位置よりは南になる。
仁王門の傍らということから、浅間山古墳の推定地と重なり、石室あるいは石棺が現れ、その中に地蔵菩薩が安置されていたと推測することもできる。
また、地蔵尊は寺荒廃の時代に紛失したものを掘り出したということで、元は祠か本堂内に安置されていたものが、何らかの理由で仁王門付近の土中に埋められ、それを探し歩いていた住僧が発見したということなのか。
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