【那須小川古墳群】
那須小川古墳群は、栃木県那須郡那珂川町(旧小川町)にある古墳群で、駒形大塚古墳、吉田温泉(ゆぜん)神社古墳群、那須八幡塚古墳群の総称。
権津川流域(ごんづがわ)に分布する、4世紀代に造られた古墳群で、駒形大塚古墳、吉田温泉神社古墳、那須八幡塚古墳の3基の古式の前方後方墳と21基の方墳と竪穴状遺構4軒からなる。
これらの古式古墳らが存在することから、旧小川町は下野(しもつけ)で最も早く開発され、反映した地域と考えられる。
1979年(昭和54年)に先に国の史跡に指定されていた駒形大塚古墳に、吉田温泉神社古墳群、那須八幡塚古墳群が追加、『那須小川古墳群』に名称変更され、2002年(平成14年)に国史跡に指定された。
【吉田新宿古墳群】
吉田温泉神社古墳、観音堂古墳のセット、那須八幡塚古墳、吉田富士山古墳のセットが那珂川沿いに列をなすことから、「那珂列墳」「温泉列墳」と、より呼称されていたという。
1991年(平成3年)、国道293号のバイパス建設に伴う発掘調査で、吉田温泉神社古墳の北で3基の方墳群が確認された。
温泉神社境内にも、2号墳、3号墳などが存在することから、周辺に古墳群が展開する可能性が考えられたため、1995年
〜1997年(平成7年〜9年)、吉田温泉神社古墳から那須八幡塚古墳にかけて約6万平方メートルを「吉田新宿古墳群(※)」として、確認調査が行われた。 (※)新宿(あらじゅく)は字名。
調査の結果、吉田温泉神社古墳周辺(吉田温泉神社古墳群)には方墳20基と竪穴状遺構4軒、那須八幡塚古墳周辺(那須八幡塚古墳群)には吉田富士山古墳の方墳1基が確認され
、方墳が少なく、発掘例も少ない栃木県内において、古墳時代前期の方形墳のみから成る大古墳群の発見となった。
【那須八幡塚古墳群】
那須八幡塚古墳群は、那須小川古墳群のうち、最も南に所在し、造営時期は最も遅い。
確認されている古墳は那須八幡塚古墳と吉田富士山古墳の2基のみで、すぐ北側で21基も確認された吉田温泉神社古墳群と、未確認ながら、数基の古墳を伴うとされている駒形大塚古墳と比べると少ない
。
那須八幡塚古墳の造営後にも、吉田温泉神社古墳周辺の方墳の造営が続けられていたようで、調査範囲外に未確認の古墳が存在するのかもしれない。
また、これらの古墳群に後続して造られたと思われる大田原市の侍塚古墳群においても、南北の2グループに分けた時、吉田新宿古墳群と同じような構成になる。
北側の下侍塚古墳周辺には多くの古墳が集中して造られているのに対し、南側の上侍塚古墳周辺にはわすが2基のみである。
南と北での造られ方に何か意味があるのか、はたまた全くの偶然か、非常に興味深い。

▲那須八幡塚古墳群
「侍塚古墳と那須国造碑」より引用
この北側に吉田温泉神社古墳群が続く
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▲北側から
左が後方部、右が前方部
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【那須八幡塚古墳】
那須八幡塚古墳は、那須八幡塚古墳群2基中の主墳で、八幡塚1号墳とも称される。
出土品などから、北に隣接する吉田温泉神社古墳群の主墳・吉田温泉神社古墳に後続するとされ、那須小川古墳群の三基の前方後方墳のうちでは、最後に造られたと
されている。
1953年(昭和28年)に小川町古代文化研究会などにより、発掘調査が行われ、墳丘の規模や主体部が確認されているが、この時には既に前方部の一部が削平されて
しまっていたようで、前方部の高さと幅については不明だった。
主体部は、後方部墳頂下1mのところに東西の両端に粘土塊をもつ木棺直葬で割竹形木棺(わりたけがたもっかん※)と推定される
。
※割竹形木棺……中をくり抜いて作った身と蓋を合わせた、長大な円筒形の木棺。
副葬品は武具や鉄製品など多数出土しているが、中でも特筆すべきが中国製の夔鳳鏡
(きほうきょう※)である。
※夔鳳鏡……裏面に鳳凰が翼を広げているようにみえる竜形の文様をつけた青銅鏡。
夔鳳鏡は、日本の古墳からの出土例は極めて稀で、十数例ほどしかなく、調べた限りでは、関東ではこの八幡塚一例のみである。
これらの調査結果から、貴重な古墳であると評価され、1961年(昭和36年)、栃木県の史跡に指定された。
1991年(平成3年)、小川町教育委員会により範囲確認調査が行われ、その結果に基づき、1993年(平成5年)、宅地化され、墳丘を失っていた前方部や後方部の一部に盛土を行い、復元整備された。
被葬者について、南側の工場内に所在する吉田富士山古墳の解説板には「那須国造一世か二世の墓
であろう」と書かれており、この地方を支配していた大豪族の首長の墳墓であることは間違いなさそうである。
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