【侍塚古墳群】
侍塚古墳群は「古墳の宝庫」といわれた栃木県大田原市湯津上地区(古代の下野国那須郡)
に所在し、南流する那珂川右岸の河岸段丘に立地する。
那須地域に造られた古墳時代前期の6基の前方後方墳のうち、那須小川古墳群の駒形大塚古墳、吉田温泉神社古墳、那須八幡塚古墳に後続して、上侍塚古墳、下侍塚古墳、上侍塚北古墳の3基の前方後方墳が築かれた。
その他、方墳1基、前方後円墳1基、円墳6基の合計11基で構成される。
先に造営された那須小川古墳群が、前方後方墳と方墳のみで構成された、完全に「方」
で統一されていたのに対し、この侍塚古墳群は墳型のトレンドが「方」から「円」に移行していく過渡期の古墳群なのかもしれない。
北方1.5kmほどのところにある笠石神社に、那須国造であった那須直葦提(なすのあたいいで)の事績を顕彰するために建てられた
「那須国造碑」が祀られており、この地域は那須小川古墳群に続く那須国造一族の本拠地であったと考えられる。
1692年(元禄5年)、徳川光圀公により、那須直葦提の墳墓を求めて、上侍塚古墳、下侍塚古墳の発掘調査が行われたが、日本で初めての学術調査として評価が高いものの、被葬者を特定する発見はなかった。
出土物などから、上侍塚古墳、下侍塚古墳は那須直葦提の時代より、2〜300年ほど古い時代の400年代のものであると推定されている。
いずれにしても、湯津上に所在する3基の前方後方墳は、那須小川古墳群に後続する首長墓であり、那須直葦提に続く那須国造一族のものである可能性が高いと思われる。
1951年(昭和26年)、上侍塚古墳、下侍塚古墳の2基の前方後方墳は、「侍塚古墳」の名称で国史跡に指定された。
また、1966年(昭和41年)、下侍塚古墳の北側の侍塚1号墳から8号墳までが、一括して「侍塚古墳群」の名称で、湯津上村(現大田原市)の史跡に指定された。
全ての古墳に「侍塚古墳」がつき、史跡の名称の付け方が非常に紛らわしいが、
・国史跡「侍塚古墳」 前方後方墳2基の総称
・市史跡「侍塚古墳群」前方後方墳以外の8基
・指定なし 前方後方墳1基(上侍塚北古墳)
の11基である。

▲下侍塚古墳と1号墳〜8号墳分布図
「侍塚古墳と那須国造碑」より引用

▲湯津上地内の3基の前方後方墳と
那須国造碑の位置関係
「探訪 とちぎの古墳」より引用
また、北の下侍塚古墳を中心とした9基に対し、南の上侍塚古墳、下侍塚古墳上侍塚北古墳の2基を「上侍塚古墳群」ということもあるようだ。
南北2群に分けて考えると、先行する那須小川古墳群の吉田温泉神社古墳群と那須八幡塚古墳群の関係に似ているように思える。
北側の吉田温泉神社古墳が多くの古墳を従えているのに対して、南側の那須八幡塚古墳群が2基のみであり、南北の構成に何か意味があるのか、それともただの偶然か。
市史跡の侍塚古墳群は現在8基だが、かつて10基以上の古墳があったということなので、上侍塚古墳の周辺にも削平された古墳が存在したのかもしれない。
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▲東側から
写真左が前方部、右が後方部
右手前に最も近接する古墳が
最も近い時期に造られたと
考えられている方墳の8号墳
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【下侍塚古墳】
下侍塚古墳は、那須小川古墳群の6基の前方後
方墳の中では最大
の上侍塚古墳に次ぐ2番目の規模である。
南方約800メートルの所に所在する上侍塚古墳に
先行して造られたと推定されている。
1692年(元禄5年)、徳川光圀公による、日本で最初の学術的な発掘調査が上侍塚古墳と共に実施された
(詳細は下記参照)。
同時に保存整備も行われ、守られてきたため、考古学者の森浩一先生が「日本で最も美しい」と評した
ことで有名である。
1975年(昭和50年)に土地改良事業に伴う周溝の発掘調査が実施され、古墳の規模、周溝の形状が確認され、土師器壺などの遺物も出土している。
北側に市史跡「侍塚古墳群」8基が所在しているが、完全に「方型」で統一された那須地域の前期古墳群とは異なり、ほぼ前方後円墳と円墳で構成される。
下侍塚に最も近く、唯一の方墳の8号墳が最も近い時期に造られたもので、他は前期古墳より新しい時代のものではないかと思われる。
【古墳の名称】
元禄期の古い資料で、「車塚(上車塚、下車塚)」という名称が用いられることがある。
車塚というのは前方部を敷設する古墳の総称であるので、単に代名詞として使用されたものと思われる。
また、両侍塚のうち、北のものを「下侍塚(下車塚)」、南のものを「上侍塚(上車塚)」とする理由について、「笠石御建立起」に、「京」に近い方を「上」、「奥州」の方に
近い方を「下」というと伝えられるとある。
余談だが、「湯津上」は「湯津神」「湯都神」「柚上」と表記されることもあったようだ。
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【日本初の学術的な発掘調査】
1676年(延宝4年)、僧侶・円順により、湯津上村の草むらに打ち捨てられていた不思議な石碑が発見されたことに端を発する。
現在、日本三古碑の一つに数えられる『那須国造碑』であり、那須国造であった那須直葦提(なすのあたいいで)の事績を記したものだった。
1692年(元禄5年)、その報を受けた水戸藩主である徳川光圀公は笠石神社を創建し、碑の保護を命じた。
また、その碑の近くに那須直葦提の墳墓があると推定し、上侍塚古墳、下侍塚古墳の2基の前方後方墳の発掘調査を行った。
被葬者を特定するものは発見されなかったものの、この時、出土した鏡や管玉、石釧などの多くの遺物は、図化された後に松竹の箱に収められ再び墓中に埋め戻され、墳丘上には盛土の崩落を防ぐため松が植えられた。
発掘の様子は、大金重貞(おおがねしげさだ)が著した「湯津神村車塚御修理」や、光圀の家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)から大金重貞に出された手紙をまとめた「佐々介三郎書簡」で知ることができる。
図は克明かつ正確なもので、1975年(昭和50年)、湯津上村教育委員会の調査で、図に残されたものと同様のものが出土している。
光圀公が碑主解明のための発掘調査、記録としての絵図作成、出土品保護のための原位置への埋め戻し、碑堂建立と周辺地買収、管理人設置
、墳丘保護のための松野の植林……などの一連の事業を行ったことは、日本における文化財保護史上、きわめて重要な事績である。
2021年1月19日付の下野新聞によると、栃木県は、光圀公の学術的発掘調査の実態を解明し、業績を確認するため、国指定史跡・侍塚古墳を再発掘する方針を固め、2021年度予算案に盛り込むという
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