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☆ 遥かなる東国へ……流され王の伝説 ☆

流され王の系譜

こうれい
第7代 孝霊天皇

         

├───

───── ──────── ────┐    

こうげん
第8代 孝元天皇

   

きびつひこのみこと
吉備津彦命

   
 

├───

─────       ──────── ─────────

────┐

 

かいか
第9代 開化天皇

        おおびこ
大彦命

├───

───── ──────── ────┐  

 │    

とおつあゆめまぐわし 
遠津年魚眼眼妙媛

ひめ
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すじん
 第10代 崇神天皇

 
━━┯━━

   みまきひめ
皇后 御間城姫
 

ひこいます
日子坐命

 

たけぬなかわわけ
武淳川別命

       

(父・大彦命)  

   
 ┌─── ──────

┌───

──┘    

   

とよすきいりひめ
豊鍬入姫命

とよきいりひこ
豊城入彦命


すいにん
第11代 垂仁天皇

 
━━┯━━

   ひばすひめ
皇后 氷羽州姫命
 

たんばのみちのぬし
丹波道主命

(初代斎宮)

┌───

──┘ (父・丹波道主命)  

 

    

やつなた
八綱田王

けいこう
第12代 景行天皇

     


 

   

 

ひこさしま
彦狭島命

やまとたける
日本武尊

    四道将軍   
     
 

みもろわけ
御諸別

┌───

──────

かんなぎわけ
巫別

あらたわけ
荒田別

┌───

──────

たかはせ
竹葉瀬

たみち
田道命


  

とよきいりひこ 
豊城入彦命

 東国を平定し、上毛野氏や下毛野氏の祖となったいう豊城入彦命は第10代崇神天皇の第1皇子である。
 第1皇子でありながら、異母弟の活目尊(いくめのみこと・後の垂仁天皇)に皇位を譲り、大和から遠く離れた東国へやってきた理由を日本書紀は以下のように語る。
 父である崇神天皇は豊城入彦命と活目尊の二人の息子のうちどちらを皇嗣とするか夢占いをさせた。その結果、弟を後継者とし、兄を東国統治の任に当らせることとした。

 だが、天皇の長子である皇子に皇位継承の代わりに、東国の統治者としての権威と名誉を与えたというようなわけではない。

 この時代、天皇は大和全域を支配下に置いたものの、まだ日本全域を掌握しておらず、東国も当然まだ「まつろわぬ人々」が住む地であったのだ。

 豊城入彦命の崇神天皇は大和全域の支配権を確立し、余勢を駆って日本全域を支配下に収めるべく、四道将軍を任命し、平定行動を開始したとされている。

 崇神天皇が10代天皇とされながらも、「御肇国天皇〈はつくにしらすすめらみこと〉」……すなわち、「初めて国を治めた天皇」と呼ばれるのは、この所以である。ちなみにこの時代に「斎宮」も始まり、豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命が初代斎宮となっている。国家としての体勢が整いつつあった時代のようである。

 四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというものである。

 この中でもっとも有名なのが、吉備津彦命であろう。吉備津彦命が現在の岡山に向かい、土着の勢力を討ったのが、知らぬ者がない「桃太郎の鬼退治」として語り継がれている。討たれた土着の勢力は渡来系だったと言われ、その容貌などから「鬼」に例えられたようである。彼らが築いた山城は「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、その跡が現在も岡山県に残っている。

 そんな国家平定の一環として、豊城入彦命は東国行きを命じられたのである。国家平定といえば響きはよいが、つまり独自の勢力をはびこる地域に対する侵略戦争の最前線に送られたようなものである。

 戦の最中に命を落とすかもしれず、その地を獲らなければ帰還することもかなわない。「流され王」といわれるほどの辛い役目を帯びての道行きであったのである。

 もっとも有名な「流され王」は日本武尊(やまとたけるのみこと)であるが、父の景行天皇に疎まれ、従わない他勢力を討つために各地に赴き、ついには都へ帰ることなく没したという人生は豊城入彦命の人生にオーバーラップする。

 日本武尊は系図を紐解くと豊城入彦命の弟の孫に当たるが、その実在は疑われている。豊城入彦命を筆頭に各地に派遣され、戦った皇子将軍達の記憶が日本武尊という一人の英雄を作り上げた、というのが正解かもしれない。

 豊城入彦命は日本武尊と同様、ついに都に帰ることなく、東国の地に没したと言う。

 豊城入彦命の記憶は今も毛野の地に残っており、前橋市総社の二子山古墳や大室の前二子古墳、新治郡八郷町の丸山古墳などがその奥津城として語り継がれ、赤城神社を初めとして様々な神社で祭神として奉られている。

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やつなた 
八綱田王(倭日向武日向彦八綱田)

 豊城入彦命の息子で、上毛野君遠祖といわれている。
 叔父にあたる垂仁天皇の命令により、皇后の狭穂姫とその兄の狭穂彦の反乱に際し、二人を春日にあった稲城もろとも焼き殺した将軍として有名である。
 八綱田の前につく長い名前は、その戦功にたいして天皇から賜ったという。
 この王が実際に東国に赴任してきたかどうかは不明であるが、その名が現在も毛野の地に語り継がれている。
 朝廷直属の領地があった栃木県足利市付近に、八綱田王が居住していたので、梁田「ヤナダ」の地名が生まれたといい、また、群馬県前橋市の総社古墳群の愛宕山古墳もこの王の奥津城であるという伝説が残る。

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ひこさしま 
彦狭島命

 豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている。
 崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺りであったという。
 その死を悼んだ東国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。
 三島塚古墳(高崎市石原)が墳墓であるという説がある。

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みもろわけ 
御諸別王

 彦狭島命の子であり、その任に就かずして亡くなった父の代わりに、東国に下った。
 まだまだ蝦夷(えみし)の勢力が強く、その騒動を鎮圧し、東国を平和に治めたという。

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あらたわけ かんなぎわけ
荒田別 巫別


 上毛野君の祖。「日本書記」には百済に遣わされたという記述があるが、東国に来たのかどうかは不明。

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たみち
田道命

 天皇の命により、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)征伐したという人物である。
 見事勝利を得て凱旋したが、帰国後2年目、今度は、東北地方平定のため蝦夷の征伐に向かわされた。
 が、東北各地の反乱を平定し、更に北に兵を進める途中、『伊寺(いじ)の水門(みなと)』で戦死したという。

 『伊寺の水門』の場所ははっきりしていないが、おそらく現在の秋田県北部一帯のいずれかであろうと云われている。鹿角郡の猿賀神社には『田道将軍戦没の地』と書かれた墓があるそうである。

 前橋の伝説では、田道命の遺体は上野国分寺の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが蛇穴山古墳であるという。
 その後勢いを取り戻した蝦夷が田道命の墳墓を暴くと、中から大蛇が表れて毒気を吹きかけて蝦夷を殺してしまったということである。
 
 田道命は毛野はもちろん東北や北海道の神社などで祭神として奉られている。
 
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